潮騒が聞こえる
再びロンドンへ
それから一週間、純子は凪の母と親子のように日常を送っていた。純子はこの時代に慣れようと積極的に何でもやってみた。それはこの時代に来るのが約束されていたように、不思議と見違えるようにこの時代に溶け込んでいった。純子の努力は、最初は凪と暮らしていくためだったが、やがてそれは自分がこの時代に生きているという喜びに変わっていった。自由、すべて制限がなく、女性だからといってあきらめる必要もない。そして、純子は自由な時代に才能を生かしていくことになる。
凪と石井は再び小料理 藤子にいた。
「戸籍がない場合、就籍届というものを出すことになる。子供の場合は親が出生届を出し忘れたとかの理由で親が出せるが、親がない場合は未成年でも本人が就籍許可の申立書を出すことで戸籍を取るという方法がある。客観的に見て日本人だということが証明できればいい」
「彼女の場合は、どうやって証明するんだ?」
「うん。幸い、じいさんが生きている。純子さんは石井家の人間だから、DNA鑑定してもらって石井家の家族というのを証明しようと思う」
「戸籍上は誰の子になるのかな」
「身元保証と身元引受はおれの両親になるので、赤ちゃんの頃生き別れたとか記憶喪失だったとか、記憶が戻って帰ってきたがそれまでのことは思い出せないとか、シナリオがいるかもしれないな。戸籍上はおれの妹になるのかな。ごちゃごちゃ言われたら、おれが最後まで、お前らの面倒は見る。」
「石井、いやお兄さん、ありがとう。よろしく頼む」
「ええ~、そうかあ。凪とは兄弟になるのかあ。それも不思議な縁だな」
「わが家にとっては、家族が増えるのはとってもうれしいことだよ」
「そうそう、ダメ押しでお前と彼女の婚姻届も続けて出しちゃえよ」
「そうだな」
「えっ? おまえはなんか帰って来てからは、見違えて頼もしくなったな。物怖じひとつしない、その度胸もうらやましいよ」
石井と凪は意見が一致して、思わずハイタッチをした。藤子さんがそれを聞いていてビールをついでくれた。
「凪くん、おめでとう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、乾杯しよう」
3人の話は、夜が更けるまで尽きることがなかった。藤子さんもこの店で起きた奇跡のような話に感激してくれていた。
凪の耳に、どこからか曾祖父の声が聞こえた気がした。
「凪よ、よかったなあ」
「おじいちゃん、ありがとう」
凪には、あごひげのある怖い顔をしたあの老人との出会いの場面が思い出されていた。まさか、あの老人が自分の曾祖父だったなんてあのとき考えもしなかった。あの曾祖父がいなければ、凪はここへ戻って来れなかったのではないだろうか。そう考えると英国留学の時の地下鉄での祖母との遭遇があったことも否定ができない。凪が生きているのは一人の力ではないのかもしれない。この世の中で生きていた、たくさんの祖先や家族たちの存在に守られているに違いない。曾祖父は祖父に、祖父は父に、タスキをつなぐ駅伝をしているように思える。今度は父から凪にとタスキは引き継がれていくのだろう。
凪は大学卒業後、航空会社に就職して空港で働く夢をかなえることができた。それをお祝いして、水野涼からローストビーフが届いた。凪は涼に、事の成り行きをメールしたが、涼からの返信には「長い話になりそうだね。今度、ロンドンに店を出すことになったんだ。寝ずに聞いてあげるからロンドンにおいでよ」とあった。
そして、凪はこの春から英国のロンドン、ヒースロー国際空港で勤務することが決まった。ムーア家の人たちとまた会うことができる。
どんな環境にあっても、凪はひとりじゃないんだと感じることができる。飛行機の中でも、もしかすると隣の席にあの老人がまた座っているかもしれないと思うことがある。自分はひとりじゃない。そう思うことができて、凪の旅はまだまだ続く。いまは隣には純子が寄り添っている。凪はひとりじゃないということを、いつも実感できる。その安心感は潮騒のように凪の体に充ちている。
人生は人それぞれに与えられた旅のようだ
子供はいつか親から離れて旅に出る
それは隣町への小さな旅かもしれない
それは見知らぬ外国に
一人置かれる旅かもしれない
それは遠く離れて
二度と会えない旅になるかもしれない
それでも親子の絆はつながれていく
寄せては返す波のように続いていくもの
ぼくらはいつも その潮騒を聞いているんだ
Fin
兄妹の再会
夕方になって、凪と純子は小料理 藤子に向かった。暖簾をくぐると懐かしい空間が待っていた。藤子さんがなぎを見るなり声をかけてくれた。
「あら、凪くん行方不明って聞いてたけど、無事に帰って来れたのね。良かったわ」
「ご心配かけました」
「あら、凪くん、きれいなお嬢さんねえ、彼女?」
「はい」
純子は黙って笑顔を見せていた。そこへ、石井がやって来た。
「こんばんは、藤子さん」
「いらっしゃい」
「おお、凪、どうしてたんだ?心配したぞ。地震の後、消えてしまったんで探したぞ」
石井はカウンターの傍に来て、凪の隣の純子に気が付いた。
「あ、初めまして。凪の友人で石井と言います」
「え?石井さん? 私は石井純子です」
「ハハハハ、うちのじいさんの妹と同じ名前ですね♪」
と笑いながら、石井は純子の顔をまじまじと見て愕然とした。
「あれ?法事をやったばかりのおばに似ている!」
「石井、正直に言うよ。落ち着いて聞いてくれ。じつは、彼女はお前のじいさんの妹さんだ。似ているんじゃなくて、本人なんだ」
「ばか言え、おばさんは死んで法事もやったんだぞ」
「あの地震の後、僕はタイムスリップして昭和20年の館山にいたんだ。そのとき、二十代の石井のおじいさんが現れて城山でお世話になったんだよ。純子さんにも木村屋旅館でお世話になったんだ。この時代に帰れることになって、一緒に連れて来たんだ」
「凪、居なくなったと思ったら急に現れて夢の話か。あのとき頭でも打ったか?大丈夫か?確かにじいさんの妹は旅館に勤めていたと聞いているけど、純子って名前までお前よく知ってるな。でも、そんなことあるかよ。映画じゃあるまいし」
「石井、本当の話なんだ。僕は純子さんと結婚する約束をした。この時代でふたりでやっていくよ」
「え?ホントの話なのか? マジ?」
「マジ卍 !」
「純子さんは今おいくつですか?」
「十七歳です。でも不思議、兄の孫にあたる人が私より年上なんて」
「はあ・・・」
石井はこの夜、かなり酔って家路についた。
次の日、凪は純子を連れて石井の家を訪ねた。なぜなら、石井の祖父がまだ健在だったからだ。兄妹の再会を石井に頼まれていた。
「こんにちは」
「は~い」
石井の母が出てきた。
「あら、凪くん、どこにいたの? みんな心配していたのよ」
「ご心配かけてすいませんでした」
「あら、お友達?」
「はい、ぼくの婚約者です」
「まあ、それはおめでとう。あれ、誰かに似ているわね」
「始めまして、純子です」
「え?純子さん?」
凪と純子は奥の居間に通された。そういえば、石井の祖父と純子は父親が戦死したあと、館山に残り、兄妹ふたりで働いて生活した苦労があった。純子はその兄と、ここで会えるということで、緊張していた。そこへ石井に連れられて石井の90歳を過ぎた祖父が入ってきた。その姿を見て純子が急に涙を流していた。
「お・に・い・さん」
純子の顔を見て、石井の祖父は驚いた。そして泣き出してしまった。
お~お~、と大きな声が部屋に響いた。ふたりは抱き合って泣いた。
「純子、純子なのか・・・」
「はい、おにいさん」
「純子が終戦後に急にいなくなって、空襲に巻き込まれてしまったかと心配したよ。布良の伯父から純子を見かけたと聞いて、布良まで探しに行ったんだが行方は分からず、家族はお前の葬式を出したんだ。小舟で海へ出たのを見かけた人もいたので、海で死んだと思っとった」
「はい、この凪さんと一緒にこの時代に来ました」
「そうか、んんん、わしにはよう分からんが、会えてよかった。でもなんで若いままなんだ?」
それを見ていた石井の母も唖然としてこの再会を見守った。十七歳の伯母が目の前にいる。
「お兄さん、私は凪さんと一緒に、この時代を生きていきます」
「おお、そうか。あの辛い時代を経験して来たんだから、幸せになって欲しい。凪くん、妹を頼んだよ」
「はい、ぼくが純子さんを守っていきます」
「おお、ありがとう」
純子の美しい目から大粒の涙がこぼれていた。
「石井さん、あの時は城山でお世話になりました。行く場所がなくて本当に助かりました。職場も木村屋旅館の純子さんを紹介してもらって助かりました」
「んん?何のことかな?」
「あ、いえ、ありがとうございました。感謝してます」
「何だか分からんが、妹をよろしくな」
「はい」
帰り道、凪は石井に相談したいことがあると言って、海岸に行った。
「相談って何だい?」
「純子さんの戸籍なんだけど、どうしたらいいかなあ」
「ああ、そうだよな、タイムスリップしてきたから、この時代には戸籍がないな」
「ぼくはいずれ航空会社に就職して、イギリスに行きたいんだ。もちろん、純子さんを連れて行って、向こうに生活の拠点を置くつもりだ。石井は市役所にいるんだろ?戸籍のことちからになってくれよ」
「彼女は若いけど、石井家の人間だから、俺も調べてみるよ」
「よろしく頼むよ。僕は彼女のことが好きだ。一生守っていくつもりだ。何も考えずに彼女を連れてきちゃったけど、不幸にはしたくない」
「純子さんはお前を信じて来たんだろ? お前が連れてきたので、病気で若くして亡くなったという話は違うということが分かった。お前が連れて来ちゃったから、向こうでは死んだことになったんだろうなあ。これだけの美人だ、向こうにいたらどんな人生が待っていたのかと思うとな・・・」
「そうだな、敗戦から70年のジャンプは大きいな。その間の高度成長期や人類が月に行ったことも一気に飛び越えてきたんだもんな。そこを埋めるのは大変だな」
「彼女は、ぼくが一生をかけて愛するたった一人の女性だ」
「うんうん、お前の気持ちはわかっている。何があっても俺たちで守って行こう」
「石井には言ってなかったけど、ロンドンにいたころ不思議な夢を何回か見たんだけど、純子さんが夢に出てきたんだ」
「ええ?夢に出てきたのか」
「うん、そのときは彼女が誰かは知らなかったんだけどね。目が覚めても、やけにはっきり覚えている夢だったんだ。彼女のことも、その言葉も所作も、すべて消えずに覚えていたんだ。3回の夢の内容もすべて覚えているんだ」
「不思議な夢だったんだな」
「3回目の夢の時、純子さんは僕に『早く迎えに来て』って言ったんだよ」
「おいおい、マジ?」
「マジ卍卍 !」
「実際に逢った時、純子さんは嫌な男に迫られていて、座敷牢に入れられていたんだ」
「ええ?なんだってえ」
「それを天窓から救い出してね」
「天窓だってえ?」
「純子さんも一緒に行くって決心してくれたから、もう止まれなかった」
「それで、一緒に戻ってくるって決めたんだな」
「時空を超えるって言うリスクはあっても、もう置いていけなかったよ」
「そうか、そこに居たら彼女は不幸だったかもしれないんだな」
「それは分からないけど、彼女は行くって望んでくれた」
「うん、凪、叔母を連れてきてくれてありがとうな」
「こっちこそ、ありがとう。ほんとは石井に認めてもらいたかったんだ。石井に応援してもらえれば、ぼくらはうれしいんだ」
「留学から帰国して、藤子さんの所で石井が純子さんの写真を落としただろ」
「あ、あの時お前は何か不思議なこと言ってたよな。焼き増ししてくれとか」
「うん、驚いたよ。純子さんが、石井のおじいさんの妹だったなんて」
「もう死んでしまって、いないことを俺が話したよな」
「そう、じゃあ、会うこともできないし、迎えに行くなんてできないじゃんって、あの時思ったんだ」
「そうだよな、それこそ夢の話だな」
「あのときはがっかりしたんだ」
「でもさあ、お前はタイムスリップして彼女を連れてきてしまったんだなあ」
「人生って、不思議なことがたくさんあるんだと思い知らされたよ」
「ホントだよなあ。でも、不思議なことはお前の周りだけに起こっているみたいだけどな」
「あ、そうか」
「できれば俺も、赤山でお前と一緒にタイムスリップしたかったよ」
「もし、行ってたら何をしてた?」
「そうだなあ・・・何をしてたかなあ?」
「若い頃のおじいさんに会いたくない?」
「いいよ、いまだって話はできるんだし・・・」
「石井ととっても似ていたよ。ノートを出してメモする姿なんてそっくりだったよ」
「そりゃあね、似ているだろうよ。じいちゃんを見ていると、自分もこんな老人になるんだろうなと思うことがあるよ」
「遺伝子だけでは語れない共通点があるのが面白いよね。でも、こうして帰って来れるとは思わなかったんだ。あの時代で死ぬのかなあって思って不安だった」
「そうか、そうだよな。そんなところに突然投げ込まれたら、不安しかないなあ。もしかしたら、神様はお前を選んでタイムスリップさせたのかもしれないなあ」
「えっ?」
「だってさ、もしおれだったら間違いなく戻って来れなかったと思うよ」
「僕は曾祖父に助けられて戻って来られたけど、曾祖父が言っていたよ。曾祖父が祖父へ、祖父から父へ、父から僕へとずっとタスキがつながれている。そして、僕があるのは、そんな絆のもとに存在しているからなんだって。一人だと思っていても、目に見えない祖先たちにいつでも守られているんだと教えてくれた。きっと、石井も祖先たちに守られてタスキを渡すランナーになっているんだと思うよ」
「そうか。俺にもそんな背景があって、いまを生きているのかあ」
スマホを取り出した凪はすぐに連絡を取って、いつもの藤子で石井と会う約束をした。石井は凪からの連絡に驚いていた。
「凪、どこにいたんだ?地震の後で居なくなったから心配したぞ」
「話すと長いから、今夜藤子で話すよ。石井が驚くような話もあるからさ」
「えっ、なんだい?」
「まだ家にも帰っていないんだ。今夜な」
「ああ、でも無事でよかった。じゃあ今夜」
「うん、ありがとう」、
久しぶりの石井の声で、帰ってきたことを実感した。
石井と連絡を取った後、純子を連れて家路についた。父と母は驚くだろうことは予想がついた。港から見える城山の上の館山城を純子は不思議そうに見ていた。そして、館山航空隊基地から飛び立つヘリコプターの音に驚いては、その行方を目で追っていた。おそらく純子にとって、」ヘリコプターを見るのは初めてだったのだろう。2日前に街に張られていた鉄条網もなくなっていて、敗戦の名残りもない街なかを歩いていると、平凡な一日が貴重だと感じる。
家に着いた凪は、この数日間にあったことを正直にすべて話した。母親は信じなかったが、父親は真剣に凪の話に耳を傾けていた。何より一緒にいる純子の様子を見て、凪の話を信じるしかないと思い始めていた。
「あなたはお名前はなんていうの?」
「石井純子です」
「お誕生日は?」
「昭和3年2月5日です」
「昭和3年?」
「うちのじいさんと同じくらいか」
「父さん、母さん、ぼくは純子さんと結婚しようと思う。しばらくは家でお世話になるけど、どうかお願いします」
「お前が決めたことなんだな」
「はい」
「わかった。だが、一つだけ問題がある。純子さんにはこの時代には戸籍がない。結婚もそうだが、そこを何とかしないといけないな」
「あ、そうか。はい、考えてみます」
「しばらくは、親戚の娘が来ていることにしよう。母さんもそれでいいな」
「そうね、何よりも二人の幸せを優先しましょう」
「父さん、ありがとう。母さん、純子さんのことよろしくお願いします」
「お母様、よろしくお願いします」
純子は、涙を流していた。母はそんな純子を抱きしめてくれた。
「大丈夫よ、大丈夫・・」
「凪、おまえの話は本当だと思うが、よく帰って来れたなあ」
「父さん、僕は向こうで、ひい爺さんに助けられたんだ。英国から帰った僕に、時空のゆがみが起こることを知っていて、ひい爺さんはぼくの傍でずっと守ってくれていたんだ」
「そうか、私の祖父に当たる人だね。戦争で死んだと親から聞かされたが、どんな人だった?」
「あご髭の生えた男気を感じる人だったよ。おじいさんにも会ったけど、まだおばあさんと結婚前の若い青年だったよ。お水を一杯ごちそうになったんだ」
「そうか、私の父親が若い頃か。面白い体験をしたんだなあ。凪は私たちが想像もできない冒険をしてきたんだなあ。これからも純子さんと長い人生が待っているなんてうらやましいな」
「おじいちゃんは僕に言ってたよ。ひい爺さんはじいちゃんに、じいちゃんは父さんに、父さんは僕へと、駅伝のランナーのようにタスキをつないでいるんだって。だから、祖先から言われて僕を助けに来てくれたんだって。ぼくが帰れなかったら、父さんでタスキが途切れてしまうでしょ」
「へえ、なるほどなあ。ずっと家族はつながっているんだなあ」
「うん、ぼくはロンドンに行った時から、長い長い遠い旅に行ってきたような気がするよ。でも、それは短い時間だったんだよね」
「不思議な冒険だったんだな、じつにうらやましい」
どうする?
「ピーヒョロー、ピーヒョロー」
遠くでトンビが鳴いている。波の音が近く感じる。舟は鷹の島にある造船所の浜に打ち上げられていた。ここは、館山航空隊水上班滑走台跡であり、鷹の島の造船所の敷地内にある人工の浜だ。あのとき、ここから米軍占領軍本隊が上陸して来た場所だ。凪は館山港の家影からその様子を見ていたことを昨日のように思い出していた。いえいえ、ほんとに昨日のことだったんです。
あの戦争は何だったんだろう。昭和は組織の時代、平成は個の時代、そして令和は共生の時代と言われる。個を認めつつも共に協力して生きようという時代。戦争を見てきた凪と純子の役割をこの時代が求めているのかもしれない。人生には無駄なことはひとつもない。あの体験さえも、凪の生きる方向性を指すためのパーツとなっている。純子の生きるベクトルはいろいろな可能性を秘めている。
打ち上げられた浜には、戦争は感じられなかった。しかし凪にとっては、米軍の館山上陸は数日前の出来事だった。ここは凪のいたもとの時代のようだ。目を開けた凪は明るい日差しの中、純子の姿を探した。純子は小舟に横たわっていた。純子も無事にタイムスリップできたようだ。凪は純子に話しかけた。
「純子さん、大丈夫?」
「ん?んんん」
目を覚ました純子が少し微笑んだ。どうやら無事に純子と一緒に帰って来れたようだ。時空のひずみを超えてきた純子も、あの眩暈には驚いたようだ。周りの様子を見て、純子も様子が違うことに気が付いたようだ。
突然作業服の男から声をかけられた。海辺の滑走斜面に打ち上げられた舟を見つけて、何事かと寄ってきてくれたようだ。
「あ、すいません。舟が流されてここに打ち上げられたようなんです」
「それは災難だったね。でも無事に打ち上げられてよかったね」
「ここは?」
「千葉県館山市の造船所の敷地の浜だよ。どこから流されてきたの?」
「多分、布良の浜だったと思います」
「布良?よく湾内に流れてきたね、普通なら沖へ沖へ流されちゃうんだよ。無事でよかったなあ」
「ありがとうございます」
「流されていたので確認したいのですが、カレンダーで言うと、きょうは何年の何月ですか?」
男は手帳を見ながら言った。
「令和元年の9月だよ。おかしなことを言うなあ、大丈夫かい?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございました」
造船所の男は、凪たちの乗ってきた舟を珍しそうに見ていた。
「このカッターみたいな舟は珍しいね。子供の頃はよく見たけど、いまこんな舟は見たことないな」
「この舟差し上げますので、処分してもらえますか?」
「本当?おれはこういう船が大好きなんだよ。それで、造船所に勤めているんだけどね。ありがとう、もらっちゃっていいの?」
「はい、僕らにはもう必要なくなりましたから、かえって助かります」
そう言って、凪は純子の手を取って舟を出た。二人とも不思議と衣服が濡れていなかった。造船所の男に礼を言って、造船所の門を出た。そこは鷹の島で、航空隊基地と港の海に挟まれて、道路が街へと続いている。凪たちが打ち上げられた場所は、米軍が上陸して来たあの浜だったのだ。
「純子さん、ここが70年後の館山です。平和な時代になっています」
「凪さん、わたしだんだん不安になってきました」
「大丈夫です。僕があなたを守ります。僕を信じて」
初めて感じる70年後の渚の空気、純子はゆっくり深呼吸をした。甘い潮風が胸にいっぱい入ってくる。そして、胸にあった辛かった日々のくすんだ呼気が少しずつ少しずつ出ていくような爽やかな気持ちになった。張りつめていた眉間の張りが解けて、柔らかな表情が純子に戻ってきた。
「海の色が・・・・・きれい」
純子は波打ち際で海に手を浸した。そして、子供のように輝いた目を凪の方に向けてきた。「来てよかった」と、その口元は呟いていた。十七歳と言えば、この時代では青春を謳歌している高校生だと凪は気づいた。凪は、純子を大事に思って守っていくんだと心に決めていた。ふと、振り向くと鷹の島の弁財天が見えた。平安時代に祀られたと伝えられ、歴史的には「高の島」だが、いまは「鷹の島」で通用している。純子の伯父が漁師で外洋に出るときは、この弁財天で参拝をしてから出かける。船神さまとして信仰していたのだ。純子はそれを思い出し、この時代での自分の新しい船出だと思い、凪に話しかけた。戦時中は「航空神社」として特攻に出る人たちがお参りに来ていた。
「うん、ぼくも感謝してお参りしようかな」
ふたりは、数段の階段を上り、小さいけれども港を見渡せる小高い境内に立った。弁財天の祠に頭を下げた。境内には山に沿って梅の木が並んで植えられ、中央の広場には早咲きの桜の木が植えられていた。
「あれ、ここに梅と桜の木があったかなあ?」
「おそらく、あの時代にはなかったと思うよ。毎年2月ころには、紅梅と白梅の咲き乱れる中で、桃色の河津桜が誇らしげに咲くんだよ」
「へえ、見て見たいなあ。そういえば、お花のことなんてしばらく考えたこともなかったわ。あの時はお花づくりが禁止されていたから・・・」
「うん、来年は一緒に見に来ようね。春にはソメイヨシノもきれいだし、つつじも咲くから、城山公園もいいね」
凪は港の向こうに見える城山を指さした。
「あれ?城山の頂上のお城は・・なに?」
「里見の館山城を模した博物館だよ」
「素敵ですね。私が見ていたのは、城山頂上に設置された防空砲台だったの」
「ああ、あのとき頂上には敵機を攻撃する防空高角砲台があったのかあ。ぼくはその中腹あたりで純子さんのお兄さんと洞穴の中でお話をしていましたよ」
「まあ、そうだったんですか。兄と・・・」
「ぼくはあなたを大事にします。僕を信じてついてきて下さい」
「はい」
未来への旅立ち
ふと気づくとあの老人が背後に立っていた。今度は純子にもその姿が見えているようだ。
「凪よ、元の時代に戻ったら、何をしたい?」
「普通に、静かに、生きていることに感謝すると思います」
「これはおまえにとって、貴重な経験なのかもしれんよ。望んでできるものでもないしな。もとの世界ではお前の経験が生かされることになるだろう」
「僕はここでもそうだったけど、その時を懸命に生きてきたと思うんです。だから戻っても、そこでも懸命に生きるだけなのかもしれません」
「うん、それでいい。決して無理はするな。わしがそうだったように、親からのタスキを受け取り、子供につないでいく。それが代々つながって凪がいるわけじゃ。お前のような子孫がいて、わしはうれしいぞ」
「おじいちゃんって、呼んでもいいですか?」
「ああ、いいよ」
「おじいちゃん、ぼくを守ってくれてありがとう」
「わしだけじゃないぞ。英国でばあさんを見かけただろう」
「え、やっぱりそうだったんですね」
「ばあさんは、ホームシックのお前を元気づけたいと言っていたよ」
「ありがとう。ぼくはいつでもひとりじゃないんだ」
「お嬢さん、お嬢さんにもわしの姿が見えているようだな」
「はい、初めまして」
「良い娘さんじゃな。わしは凪の曾祖父じゃ。凪のことを頼んだよ」
「はい」
「おじいちゃん、一つ聞いてもいいですか?」
「うん、何かな」
「おじいちゃんは、僕がもと居た時代でも会ったからあの時代も見ているでしょ。あの時代は、おじいちゃんの望んだような時代になっていた?」
「凪よ、わしはこの時代に戦死した。それはこの時代に生きていて、守らなければならない家族のため、戦う運命に導かれて国を守ろうとしたんだが、それもわしの運命だったと思っている。幸いなことに息子にタスキは渡してきた。君の時代は戦争のない平和な時代だ。みんな自分の意志でそれぞれが未来を描くことができる。それは、わしから見れば一つの理想の形なんだよ」
「じゃあ、おじいちゃんの望む時代にはなっていたのかな」
「わしらは、あのような時代のために戦って礎になれたのならば、それはうれしい」
「いつの時代にもまだ世界には戦争はあるし、感染病も出てくるだろうし、大きな地震や台風、火山などで、まだまだ人は戦っていかなければならないんだ。複雑化してるんだ」
「凪よ、わしもそうじゃったが、それぞれの時代で戦う相手は違うかもしれないが、大事なのは生き方じゃ、自分の生き方で示すしかないんじゃ」
「タスキをつなぐことと、僕の行き方を示すこと・・・」
「ああ、それが君へタスキをつないできた池田家の祖先からの願いじゃ、分かってくれたようじゃな」
「大将、船の用意が出来ました」
初老の男が近づいてきた。
「ごくろうさん。凪よ、この男はわしの友人だ。布良の漁師でな、何故かわしの姿が見えるようだ。わしに出来ないことをやってもらっている」
「はじめまして、凪といいます」
男は微笑んで、頷いてくれた。
老人が指をさして言った。
「そこの岩の奥に舟を用意してもらった。見えるか?」
「はい」
今度は老人の目が、南の水平線に向けられた。
「凪よ、南の水平線に浮くように、ぼんやりと揺れる赤い星が見えるか?」
「はい、あれがカノープスなんだね」
「そうだ。カノープスの見える海に舟を漕ぎ出せ。あの星を目指して進め」
「はい」
凪は純子を舟に乗せて、舟を波打ち際に押し出して、凪も舟に飛び乗った。先程の男が、ふたりの乗った舟を押してくれた。阿由戸の浜を出た舟は、漕がなくても入り江から押し出される流れに乗る。舟はその流れに乗って岸の岩場から少しずつ離れていく。老人
「さらばじゃ、もう会うことはない。お前の時代に戻って元気に暮らせ」
「おじいちゃん、ありがとう!会えてうれしかったよ」
舟を漕ぎだした凪、入り江の中は月夜で静かな波だった。海の中には海草が揺れている。オールが時々、その海草に絡まるのを感じながら舟を漕いでいく。振り向くと、水平線近くにカノープスが見える。薄赤くゆらゆらと揺れて見える。阿由戸の浜では、あの老人が手を挙げて見守ってくれている。
「おじいちゃん、ありがとう」
「純子さん、振り落とされないように頭を低くして船につかまって」
「はい」
先ほどまで見えていた房総半島南端の陸地が見えなくなってしまっていた。凪の眼には、カノープスがぼんやりと怪しく揺れて見えている。急にカノープスが大きくなって見えた瞬間、めまいに襲われた凪は舟の中に横たわり純子を抱きしめて目を閉じた。赤山の地震の時と同じだと思った。眩暈だ、あの時と同じ眩暈がやって来た。
「純子さんも目を閉じて、舟の動きに身を任せてください。僕にしっかりつかまっていてください」
凪は純子を強く抱きしめて、小舟の中で振り落とされないように足を張った。そして舟の中に用意されていた布帯で、凪と純子の体を舟にむすびつけた。舟は木の葉のように、激流の中にいた。凪の耳には激しい潮騒がゴーゴーと、遠くに近くに迫って聞こえていた。突然大きな波がふたりを被った。
「キャー!」
「純子さん、大丈夫。僕にしっかりしがみついていて」
ゴーゴーと潮騒が舟に迫ってくる。やがて二人を乗せた小舟は、渦の真中へ引き込まれていった。舟が回転する動きの中で、凪も純子も激しい眩暈に意識が薄れていくのを感じた。凪はあの赤山地下壕での地震の時に感じたあの眩暈がやって来たことを確認していた。ふたりの乗った舟は海の渦の中に消えて行った。それを見守るかのようにカノープスがぼんやりと水平線の上で、赤く揺れていた。
阿由戸の浜まで下りてきた凪は老人の姿を探した。老人は岩場の上で沖を見つめていた。そして凪を振り返って言った。
「凪よ、今夜だ。今夜南の水平線近くにカノープスが現れる。わしはこの浜に舟を用意しておく。お前は今夜ここから舟で漕ぎ出すのだ」
「この辺では言われていることだけど、カノープスの見えた日は舟を出してはいけないと。舟を出した漁師はみんな出て行ったきり、帰ってはこない。もし、カノープスの見える夜に舟を出したら、ぼくはどうなるんですか?」
「この辺の漁師は遭難して死んだと思われているが、実は何人かはタイムスリップしておるんだ。つまり、カノープスが見える夜はタイムスリップが起きることをおしえてくれているんだよ。沖には時空のゆがみが生じていて、そこに巻き込まれるとタイムスリップする。遭難はたくさんあるが、その一部はタイムスリップしているんだ。今夜お前は元の時代に帰るんだ。ところで、その女性は誰だ?」
少し遅れて浜に降りてきた純子がそこには立っていた。
「このあいだお願いしたもう一人です」
「連れて行ってどうする気だ?」
「嫁にします」
「そうか、なかなかの美人だな。お前が決めたことだ。それもよかろう」
「ありがとうございます」
少し離れたところに立っている純子には老人の姿が見えないので、不思議そうに様子を見ていた。でも、凪が誰かと話しているような姿を見たのは、これで2回目だ。
「では準備があるから、今夜また会おう」
そう言うと老人は姿を消してしまった。確かなことは、老人が凪の曾祖父であるということと、凪をもとの時代に返すために動いてくれているということだ。純子が凪のところまでやって来た。
「純子さん、今夜ぼくたちは70年後の未来へ旅発ちます。ぼくの曾祖父がその準備をしてくれています」
「私には見えないけど、凪さんと話していたんですね。少し不安になっていました」
「ぼくはどこにいても、必ず純子さんを守ります。安心して付いてきてください」
「はい」
凪は阿由戸の浜にいる。子供の頃、父親に連れられてこの浜に来たことを思い出していた。1997年の人気ドラマのロケ地になったこの浜は、父の青春の聖地だ。また、有名な実践空手の本部夏合宿が行われていたこの地は、なぜか不思議なパワーを感じずにはいられない。阿由戸の浜の東側の小高い二つの山は、右が女神山、左は鯨山という。
「凪さん、鯨山の頂上部が削られている場所が見えますか?」
「えっ、ああ左側の山だね。展望台か何かの跡なのかな?」
「砲台です。布良砲台と呼ばれていて、黒船が来る前には大筒3丁があったそうです」
「へえ、昔から東京湾の入口で重要な場所だったんだね」
「東京湾要塞地帯って言う地域で検閲も厳しかったんですよ。何処だかわかりませんが、布良の陣地と呼ばれる場所にはキャノン砲があったって聞いたことがあります」
「布良は国防としても重要なところだけど、時空のゆがみの生じる聖地なのかもしれませんね。僕にとってはタカラガイを拾いに来る海岸だけど、この浜は特別なんだと感じています」
「特別な場所・・・?」
「はい、自分はここに何しに来たんだろうって思うことはないですか?」
「私にはよく分かりませんが、凪さんは分かるんですねえ」
「無意識・・・そう、無意識で動いていることがあるんです。ここへ行って何をしようとか、そんな計画はなくても、自然と足がそこへ向いていて、いつの間にかそこにいて、そして無意識で何かをしている・・・そんなことがあるんです」
「へえ、それがこの浜に続いている・・・」
「子供の頃は気づかなかったのですが、ここは僕にとっての特別な場所だったんですねえ」
「それならば、私にとってもここは特別な場所です」
凪は阿由戸の浜の荒波寄せる波打ち際で、タカラガイを探し始めた。この浜は大きな岩場が特徴だ。その岩のもとでクチグロキヌタというタカラガイを拾うことができた。
「その貝はなんですか?」
「ああ、タカラガイっていうんだよ。この辺は、50種類ものタカラガイが打ち上げられるという浜なんだ」
「へえ、そんなに種類があるの?」
「うん、お守りにしたり、中国ではお金の役目をしたりした素敵な貝なんだ」
クチグロキヌタはOnyxと呼ばれ、縞瑪瑙〈しまめのう〉を意味する美しいタカラガイだ。凪が拾っていた時代は、ビーチコーミングが流行り、タカラガイを競って取り合うこともあったが、この時代は戦時中ということもあり、趣味で拾う人はあまりいないらしくて、数多くのタカラガイが打ちあがっていた。
大きな岩場に腰を下ろし、クチグロキヌタを手にもって、今までの人生を考えていた。
人生に無駄なんてないと言われるけど、凪がここでこうしているのも何かにつながるための事象なのだろうか。夕刻までの長い時間、凪はここで今までのことやこれからのことを考えていた。純子は浜辺で覚えたばかりのタカラガイを拾っていた。
「凪さん、この貝はなに?」
凪は岩から降りて砂浜を純子のもとに歩み寄った。
「これはきれいな巻貝だね。そうだこれを耳に当てると。海の声が聞こえるって言うよ」
凪は巻貝を純子の左の耳に当てた潮風になびく髪の毛が凪の手をくすぐっていた。純子の手が、貝を持つ凪の手に重ねられた。夕日の光の中で、純子の唇が目の前にあった。どちらからともなく、唇を寄せていった。純子の柔らかなくちびるの感触が凪には心地よかった。凪は純子を守っていくと心に言い聞かせた。凪の覚悟が固まった瞬間だった。純子も凪について行こうと心に決めていた。
この浜から見る夕陽は伊豆半島の遠い山影に沈む。富士山をシルエットに空がオレンジ色に染まっていく。凪はこの景色を羽田からの高速バスの車窓から見たかったのだ。日本一の夕景だと自慢できる景色だった。夕日が沈むと、空がオレンジからブルーに変わる。そして、そのブルーのキャンバスを背景に、星たちが輝き始める。凪と純子は静かに夕日劇場を眺めていた。辺りが少しずつぼんやりと暗さをつくり出している。
布良崎神社
上陸してきた米軍と館山市民は良好な関係だったということで、米軍は凪が思ったほどには厳しい監視がなかったことが幸いして、何とか布良の町までたどり着いた。電柱に「竹やり訓練」という張り紙があった。誰しも42歳ぐらいになると第2国民兵といって兵役から離れるのだが、本土決戦のために再度男たちを集めて訓練をした。張り紙によると、純子と同じ年の豊崎氏が銃剣術や竹槍を訓練指導するらしい。地域にはもう若い兵士はいないので、女性、老人、子供以外は兵士として訓練参加は義務だった。米軍が館山に上陸して、布良においても老人は地域の防衛隊員なのだ。あの老人はどこにいるのだろうか。あてもなくて、凪と純子は布良崎神社と書かれた方向に道を下って行った。目の前に海が広がっている。
布良崎神社の境内で休息をとっていた凪と純子は、通りかかった民家のおばさんに声をかけた。
「すいません、ちょっと教えてもらってもいいですか?」
「え、なんだね」
「カノープスってご存知ですか?」
「布良星のことかい。この辺では不吉な星と言われていてなあ。あの星が見えると海がしけるから漁師は舟を出さない。無理して舟を出したものは、誰も戻ってはこない。みんな遭難して死んでしまうんだ」
「そうなんですか」
「あれは南半球の星だから、この辺では南の水平線ぎりぎりのところに見えるんだけど、赤くぼんやりと揺れて見えるんだよ」
「おーい、たみ!」
「あ、旦那が呼んでるわ、もういいかい」
「ありがとうございました。勉強になりました」
おばさんは小走りに道の向こうの家に帰って行った。カノープスが布良星のことだと理解した凪は、純子とともに布良崎神社から少し坂を下り、海の見える道まで下りてきた。
布良の町は山の斜面に家々が立ち並んでいる。となり近所の出来事は、あっという間に町中の知るところとなる。漁師は気の荒い人も多く、それをまとめる長のよう
凪はこの時代のものではないが、純子は同級生も知り合いの家もある。純子が布良に来ていたことは、いずれ石井家の耳には入ることになるだろう。海の傍の手作りのベンチに腰を下ろして、凪はあの時のことを思い出していた。凪が留学先のハムステッドに着いた時のことだ。英国のこの町には凪のことを知っている人は誰もいない。言葉も通じないという、この孤独感と不安感は大変なものだった。そこではじっと待っていてはいけなかった。自分からチャレンジすることが早く慣れる道だった。
その集団にいることが安心ならば敢えて冒険してみるという道を学んだ気がしていた。しかし、ここは時代が違っているかもしれないが日本だ。言葉は通じる。でも、この時代の人たちは固い殻の集団のなかにいることが当たり前のような時代。凪が目立った行動をしていれば、すぐにここの長がやってくるに違いない。あの老人はどこにいるのだろう。いつも傍にいると言っていたが、自分がここに着いたことを老人は知っているのだろうか。凪は少し心配になっていた。
この夜、凪は阿由戸の浜を見下ろす男神山の布良鼻灯台のもとで、海を見ながら夜を明かした。純子だけでも、知り合いの家に行くように話したが、そんなことをすれば家のものに伝わって、凪のもとへ帰ってこれなくなることを純子は知っていた。
次の朝、それもどこかで見られていたのだろう。凪のもとへ、この町の長がやってきた。
「どっから来たんだ?ここで何してる?」
「あ、ぼくと彼女は館山の町なかから来ました。知り合いが布良にいるというので訪ねてきたんですが、昨日は会えませんでした」
「ここは東京湾要塞の南端だ。スパイ防止のため、住民は監視下に置かれていて、法律もある。カノープスについて聞いていたらしいな」
「知り合いがカノープスを探しに行けというので、聞きました」
「ここでは布良星というんだ。その知り合いと会えたら帰るんだな」
「はい」
「そうか。ところで館山の町はどんなことになってるんだ?」
「鷹の島の浜から、米軍が上陸してきて、町中は銃を持った米兵であふれていました。でも市民が殺されるようなことはなかったと思います」
「そうか」
長の顔が一瞬厳しくなった。布良の町を守るものとしての思いが垣間見られた。
「あのう、布良星というのは、毎日見られるんですか?」
「そんなことはない。見れる日は少ない」
「ぼくは布良星が見れたら、いなくなりますから、それまでお願いします」
「用が済んだら、早く帰れよ。ここでは誰かに見られているのを忘れるな。ここはよそ者は嫌う」
「わかりました」
長は、横目で純子の顔を確認しながら、山を下って行った。
館山市内では、上陸した米軍と市民とが良好な関係を築き始めているというのに、ここでは同じ国民なのに凪はよそ者になってしまっている。長は凪を振り返ることなく山を下りて行った。知り合いのいる純子は長には素性
が知れたかもしれないと思った。
「腹減ったなあ、純子さんは?」
「はい」
「あんなに走ったもんね」
ふたりは館山の町を出てから、水しか口にしていない。するとそこへ布良崎神社で声をかけたおばさんがやってきた。そして、ふたりにむすび数個を手渡してくれた。
「え?ありがとうございます。いただいてもいいんですか?」
おばさんは笑顔で優しく頷いてくれた。凪はよそものでも心が通じる人は必ずいるんだと感激していた。実はこのおばさんこそ、この町の長の奥さんだった。凪と話した後、長は家に帰って、奥さんにむすびを持っていってやれと言ってくれたようだ。凪はむすびを食べながら、人の情に触れて涙を流していた。奥さんにはふたりは、駆け落ちしたのかと思われているようだ。それは間違いではないが、時空を超えた駆け落ちなのだ。
男神山の灯台の下に座って阿由戸の浜を眺めていた凪は、岩場の上にいる人に注目した。あの老人だ。気づくとすぐに凪は山を駆け下りて、老人のもとへ向かった。
「純子さん、下の岩場に後から降りてきてください。先に行きます」