Part1 .The
mystery of the old man
凪はイヤホンで音楽を聴いている。彼の父親が学生時代に親しんだ英国出身のエジソンライトハウスというバンドのLove Growsという曲だ。1970年に日本でも「恋のほのお」というタイトルでレコードが発売されている。数十年をおいて凪がこの曲を聴き、iPodにダウンロードして、お気に入りの曲としていつも持ち歩いている。ハムステッドにいるときも毎日のようにこの曲を聴き、元気が出る曲となっていた。
空を見上げると、空港を飛び立っていく飛行機が視線を横切っていった。一瞬ロンドンの日々が蘇ってきた。ついさっきまで一緒にいたホストファミリーの顔が浮かんできた。
ロンドンで会った人たちや楽しかったことを思い返していると、館山行きの高速バスがスーっとプラットホームに入ってきて目の前に止まった。イヤホンで曲を聴いていた凪には、その光景がスローモーションのように時が止まった瞬間に思えた。
羽田空港を経由する館山行きの高速バスは、神奈川県の横浜駅を始発としていた。高速道路で羽田空港に立ち寄り、再び高速道路に戻り、東京湾アクアラインの海底トンネルをくぐり、東京湾上の海ほたるを経由して海を引き裂くような海上のブリッジをひた走り千葉県の木更津市に上陸する。館山駅ロータリーまでのバス旅となるが、およそ1時間半の短い空間移動の旅となる。房総半島南部は鋸山などの山が多く、高速道路が開通したのはつい最近のことだ。それまでの道路は狭いトンネルが多数あり、大型バス同士がすれ違いができない状態だった。凪の祖父の時代には、汽船による海路が東京への主な手段だった。
高速道路や東京湾を横断するアクアラインが出来てからは、館山から東京、横浜への車での時間が数十分から1時間近くの短縮となった。飛行機やバスは時間移動のタイムマシンのように、人の移動距離にかかる時間を短くしてきた。移動手段が限られていた頃は、人々はその距離を歩いて移動していたので、どれだけの時間を費やしていたのだろうか。おそらく行ったことがない土地ばかりで、人の行動範囲は限られていたのだろう。空間移動は、その手段で時間を短縮できる。それは未来への短縮だ。しかし、その時点からの過去への移動は、いまだに説明のできない「タイムスリップ」という夢物語だ。
少し笑いながら、館山行き高速バスのステップを上がった。ドライバーに軽く会釈をしてチケットをチェックしてもらい、左右の座席に挟まれた細い通路を通り、後ろから3番目の窓側の席に座った。荷物は頭上の棚に乗せて身軽となった。大きな荷物やスーツケースは宅急便で送ってある。この席は車窓からは夕日の海が見えることを経験上知っていたので、この席に座れたのはラッキーだった。
凪が席に落ち着き、フーっとひとつ息をついた時だった。通路を挟んで反対側に座っていたあごひげのある老人から、ふいに声をかけられた。
「どこまで行くの?」
「あっ、館山です」
「旅行ですか?」
「いえ、家に帰るところです」
凪の顔を見て、顔を右に傾けて老人が言った。
「・・・君はしばらく家には帰っていなかったね」
「ええ、2年間外国に留学していたので・・・。でも、なんでわかったんですか?」
「うん、うん」
老人は目を閉じて2度ほど頷くと、
「何があっても驚いちゃだめですよ」
そう言うと老人は立ち上がり、バスの狭い通路をまるで空気のように静かに歩いて行ったかと思うと、そのままバスを降りてしまった。凪は車窓から老人の姿を追った。老人はこちらを一度も振り返ることなく、羽田空港の雑踏のなかに消えて行ってしまった。いったい何だったんだろう、そして老人の残したあの言葉、あの老人は凪がこの席に座ることを分かっていて横の席で凪を待っていたのだろうか。凪はいきなり異空間に迷い込んだように困惑の中にいた。
東京湾に海底トンネルができて、普通に通行できるようになるなんて、まるで未来都市だ。それまでは久里浜と金谷を結ぶ東京湾フェリーと、通勤でも使われていた川崎と木更津をむすぶフェリー〈マリンエキスプレス〉が東京湾を渡る手段だった。川崎から海ほたるまでの約9.5キロメートルは海底トンネルを走り、海上の海ほたるから木更津料金所までの約4.4キロメートルが、アクアブリッジと呼ばれる海上の高速道路となっている。
凪の乗った高速バスは川崎の浮島から海底トンネルに入った。しばらくの間、車窓からは海底トンネルの壁しか見えない。その壁には1キロごとに数字が書かれていて、同じ景色の中での川崎浮島と海ほたるまでの距離が分かる。それ以外は変わらない壁模様が続いていた。
「誰かに見られている!」
ふとそう思った凪は、閉じているまぶたを運命に逆らうようにそっと開いた。そして、薄目のまま通路の反対側を覗き見た。
凪はゾクッとして恐怖を感じた。凪の背中に冷たい旋律がキーンと走った。そこには羽田でバスを降りたはずの、あの老人が座っている。そしてこちらをじっと凝視しているではないか。そんなばかな、あの老人は確かに羽田でバスを降りて空港の雑踏の中に消えていったはずだ。そしてバスはどこにも停車していなかったはずだ。でも、横から感じる気配は紛れもなくあの時の老人のものだ。身動きが取れない金縛りの中で、凪はじっと寝たふりをして目を閉じていた。高速で走るバスのエンジン音だけが、凪の耳には聞こえている。バスはアクアラインの海底トンネルの中を走っていた。15分程のトンネルの中が、とてつもなく長い時間に思えた。
しばらくすると辺りが明るく感じられた。バスは海底トンネルを抜けて、海ほたるを経由してアクアブリッジと呼ばれる海上の高速道路に出たようだ。ここからは海上をしばらく走る。窓からは浦賀水道を行く船舶を身近に見ることができるエリアになっている。木更津の海苔養殖の浜を横切り、やがてバスは房総半島に上陸する。木更津の料金所を徐行したところで、凪は再び目を開き、おそるおそる通路の反対側の席を覗き見た。
「あれ?」
あの老人の姿はなく、そこは無人の座席に戻っていた。凪は座席を立ち上がり、バスの中にあの老人の姿を探したが、見当たらなかった。あれは夢だったのだろうか。羽田で聞いた言葉が何を意味するのか理解できずに脳裏に残っている。英国からの長旅に疲れていた凪が、あの老人の姿を作り出してしまっていたのかもしれない。家族は元気でいるだろうかと初めて親の健康を気遣う凪がいた。それだけ老人のあの言葉が気になっていた。なぎが留学している間に家族に何かがあったのではないかと心配で落ち着かなくなった。バスは夕刻せまる館山道を南へ向かって走っていた。凪は再び転寝の中にいたが、はっと目が開き、隣の席にあの不思議な老人を探してしまう。老人の言ったあの言葉が頭の中を駆け巡っている。高ぶった状態を何とかおさめようと努力を始めた。
夕日の海〈東京湾〉に影絵のように浮かび上がる富士山の姿、やがて夕陽は富士山の背景をオレンジ色に染めて、その山影に沈んでいく。まさに日本で一番美しい夕景が、バスの車窓右側で展開されていた。凪は緊張からか眠りの中にいたので、楽しみにしていた車窓からの夕景は見ることができなかった。神奈川県の久里浜に向かう東京湾フェリーが、金谷港を出港して夕日の海を進んでいく。その姿を車窓に映して、バスは高速館山道を南下していった。