1954年、昭和の巌流島といわれた他流試合がありました。
力道山(プロレス)vs木村(柔道7段)の試合です。
木村の妻が重い病気に罹っていて、木村は妻のために
アメリカの高価な薬を得るための挑戦だったと言われています。
試合の前日、力道山からの電話で、お互いに背負うものが大きいので、
お互い引き分けにしようと持ちかけられて合意していたらしい。
安心して、前日酒を飲んでいた木村を叱ったのは友人の大山でした。
大山が安じていたように試合が始まると本気で顔を叩いてくる力道山に、
話が違うじゃないかと、木村は反則の蹴りを一発。
これにキレた力道山が木村の顔面、頭部に執拗なまでの殴打を繰り返す。
ふいをつかれた木村は、失神してしまう。
この結果、力道山が柔道王を制したことになった。
前日からのいきさつを知っている大山は、木村のセコンドにいた。
そして、曲がったことが嫌いな大山は、
勝ち名乗りを受ける力道山を睨みつけてリングに上がろうとしていた。
それを抑えられる映像を、テレビカメラは映していた。
実は、力道山の「カラテチョップ」は、大山が指導したものだったのだ。
さて、この大山氏の弟子には多くの逸材が育っていた。
その中にケンカ十段といわれた芦原英幸氏がいた。
かれはケンカが強いだけではなく、人間的にみんなに好かれていた。
城西の添野氏も日大の山崎氏も道場のある四国愛媛まで
芦原氏を頼って修行にでている。芦原氏は四国の地で自分で開いた道場をここまで大きくするまでに努力していった。その芦原氏が極めたのが「サバキ」でした。どんな攻撃にも対処してさばくことができれば、それは攻撃ともいえる。芦原氏は平成4年にALSという難病で亡くなっている。
芦原氏は心優しき空手家です。困った知り合いを助けるために、
池袋の路上でやくざさんを数人相手になぎ飛ばしていた。
芦原英幸氏は破門されていたが、大山氏の命を受けて四国に行き、
芦原カラテを広めていった。それが四国愛媛の芦原会館だ。
大山氏の愛弟子、芦原のところでは、正道館の石井和義元館長や
円心空手の二宮城光らが弟子として頭角を現す。
極真アメリカには、ウィリーウィリアムスという熊と闘った男が現れた。
あまりにも強すぎたウィリーは、蔵前国技館でのアントニオ猪木戦を迎える。
極真空手と新日本プロレスという看板の戦いとなった。
猪木はウィリーの腕を折り、ウィリーは猪木のあばらを折った。
異種格闘技の最後はこういう結末しかないのかもしれません。
もし、木村に油断がなかったら、こういう結末が
待っていたのかもしれない。
ウィリーは、正道の石井館長の愛弟子「佐竹雅昭」と闘っている。
佐竹は猪木戦をテレビ観戦していたので、
ウィーリーとの試合は感激だったに違いない。
ぼくもこの試合は最前列で観戦した。