若き孤高の空手家、大山倍達氏は南房総の清澄山に2年半のあいだ、
山ごもりをして空手の修行に励みました。
自分の心がへこたれないように眉毛を片方そり落としてしまったそうだ。
こうすれば、恥ずかしくて人里へは近づかない。
孤高の空手家、大山倍達氏は
南房総天津の清澄山での山ごもり修行を終えて、館山に居を構える。
館山市の八幡海岸での映画撮影で牛との戦いをむかえた。
ぼくの父はこのドキュメント映画に見物人として
学校単位でかり出され、目の前で見ていたそうだ。
この写真の後ろに見える学生服の団体の中にいたのだろう。
(写真もと不明。同写真は大山氏の特集誌にもある)
大山総裁が生きていた頃は、
毎年本部の夏合宿は館山の安房自然村と決まっていました。
布良のビーチボーイズで有名になった海岸には
かつて、極真空手の猛者たちが瞑想する姿が見られました。
大山総裁は何度も言っていました。
「ここ館山が極真空手の発祥の地だ」と。
ビデオ「牛殺し」でも、館山と極真空手のつながりを語っています。
本部夏合宿が行われていた安房自然村の名主の館。
1997年には、ドラマ「ビーチボーイズ」のロケ隊のひと夏の合宿所として
使われていました。
大山氏が、館山に住んでいるときに、
待田京介という館山の青年が一番弟子になっています。
青年は後に日活の映画俳優になっています。
孤高の空手家は東京池袋に世界に名だたる極真会館を創設します。
東京での波乱万丈な人生は「空手バカ一代」で是非読んでみてください。
人生のヒントがかくされていますよ。
大山氏の一番弟子となった待田氏は「空手バカ一代」でも、
玄関の土間で土下座して弟子になる青年として描かれています。
待田京介(まちだきょうすけ)、本名 薦岡康彦
1936年6月22日生まれ
千葉県館山市出身の俳優、空手家、都立大泉高校
新人俳優の頃の待田氏
終戦直後の館山に住んでいた大山倍達に親が頼み込んで弟子入りした。
それまで弟子を取らなかった大山倍達にとって一番弟子でした。
館山で大山倍達に稽古をつけられる。
大山が東京に移るのを追いかけるようにして東京へ行き、
池袋の大山道場で空手の稽古に励む。
大山道場は極真会館と名前を変え、後に世界一有名な空手道場となっていく。
待田氏は高校卒業後、さまざまな職業に就くが俳優を目指し、
「俳優座養成所」「東京芸能」を経て、1958年日活入社。
同年井上梅次監督の『素晴らしき男性』で、石原裕次郎の弟役でデビュー。
小杉監督の『船形さんよ』の主役に抜擢される。
小林旭、川地民夫らにつづく新人として売り出し、
1959年の「らぶれたあ」は、1995年に
中山美穂、豊川悦司でリメイクされています。
現在も、極真の大きな大会には、来賓として招かれています。
現在の待田氏
館山で空手の修行に励んでいた大山氏は
館山八幡海岸での牛との戦いのあと東京田園コロシアムで、
スペインの闘牛用の牛と闘うというドキュメント映画の撮影に臨んだ。
この牛はかなり凶暴で、戦いを見守っていた専門家によって、
大山氏が危険と判断されて試合途中で銃殺されていると聞く。
しかし、アラブでゴリラとの戦いを強要されたり、
アメリカではアンダーグラウンドの組織の賭けプロレスに出されたりと
大山氏の半生は波乱万丈です。
晩年の大山氏とプロレスの前田日明との対談では、
「前田くん、きみ!虎と闘いなさい!」とものすごいアドバイスをおくっていた。
(その3につづく)
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