再びロンドンへ
それから一週間、純子は凪の母と親子のように日常を送っていた。純子はこの時代に慣れようと積極的に何でもやってみた。それはこの時代に来るのが約束されていたように、不思議と見違えるようにこの時代に溶け込んでいった。純子の努力は、最初は凪と暮らしていくためだったが、やがてそれは自分がこの時代に生きているという喜びに変わっていった。自由、すべて制限がなく、女性だからといってあきらめる必要もない。そして、純子は自由な時代に才能を生かしていくことになる。
凪と石井は再び小料理 藤子にいた。
「戸籍がない場合、就籍届というものを出すことになる。子供の場合は親が出生届を出し忘れたとかの理由で親が出せるが、親がない場合は未成年でも本人が就籍許可の申立書を出すことで戸籍を取るという方法がある。客観的に見て日本人だということが証明できればいい」
「彼女の場合は、どうやって証明するんだ?」
「うん。幸い、じいさんが生きている。純子さんは石井家の人間だから、DNA鑑定してもらって石井家の家族というのを証明しようと思う」
「戸籍上は誰の子になるのかな」
「身元保証と身元引受はおれの両親になるので、赤ちゃんの頃生き別れたとか記憶喪失だったとか、記憶が戻って帰ってきたがそれまでのことは思い出せないとか、シナリオがいるかもしれないな。戸籍上はおれの妹になるのかな。ごちゃごちゃ言われたら、おれが最後まで、お前らの面倒は見る。」
「石井、いやお兄さん、ありがとう。よろしく頼む」
「ええ~、そうかあ。凪とは兄弟になるのかあ。それも不思議な縁だな」
「わが家にとっては、家族が増えるのはとってもうれしいことだよ」
「そうそう、ダメ押しでお前と彼女の婚姻届も続けて出しちゃえよ」
「そうだな」
「えっ? おまえはなんか帰って来てからは、見違えて頼もしくなったな。物怖じひとつしない、その度胸もうらやましいよ」
石井と凪は意見が一致して、思わずハイタッチをした。藤子さんがそれを聞いていてビールをついでくれた。
「凪くん、おめでとう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、乾杯しよう」
3人の話は、夜が更けるまで尽きることがなかった。藤子さんもこの店で起きた奇跡のような話に感激してくれていた。
凪の耳に、どこからか曾祖父の声が聞こえた気がした。
「凪よ、よかったなあ」
「おじいちゃん、ありがとう」
凪には、あごひげのある怖い顔をしたあの老人との出会いの場面が思い出されていた。まさか、あの老人が自分の曾祖父だったなんてあのとき考えもしなかった。あの曾祖父がいなければ、凪はここへ戻って来れなかったのではないだろうか。そう考えると英国留学の時の地下鉄での祖母との遭遇があったことも否定ができない。凪が生きているのは一人の力ではないのかもしれない。この世の中で生きていた、たくさんの祖先や家族たちの存在に守られているに違いない。曾祖父は祖父に、祖父は父に、タスキをつなぐ駅伝をしているように思える。今度は父から凪にとタスキは引き継がれていくのだろう。凪は大学卒業後、航空会社に就職して空港で働く夢をかなえることができた。それをお祝いして、水野涼からローストビーフが届いた。凪は涼に、事の成り行きをメールしたが、涼からの返信には「長い話になりそうだね。今度、ロンドンに店を出すことになったんだ。寝ずに聞いてあげるからロンドンにおいでよ」とあった。
そして、凪はこの春から英国のロンドン、ヒースロー国際空港で勤務することが決まった。ムーア家の人たちとまた会うことができる。どんな環境にあっても、凪はひとりじゃないんだと感じることができる。飛行機の中でも、もしかすると隣の席にあの老人がまた座っているかもしれないと思うことがある。自分はひとりじゃない。そう思うことができて、凪の旅はまだまだ続く。いまは隣には純子が寄り添っている。凪はひとりじゃないということを、いつも実感できる。その安心感は潮騒のように凪の体に充ちている。
人生は人それぞれに与えられた旅のようだ
子供はいつか親から離れて旅に出る
それは隣町への小さな旅かもしれない
それは見知らぬ外国に
一人置かれる旅かもしれない
それは遠く離れて
二度と会えない旅になるかもしれない
それでも親子の絆はつながれていく
寄せては返す波のように続いていくもの
ぼくらはいつも その潮騒を聞いているんだ
Fin