潮騒が聞こえる〈BEACHBOYS1997〉

たそがれ時を過ごす場所。Costa del Biento / Sionecafe        Seaside Blue Rosesを夢見て

館山駅

駅前回顧録5

CIMG1586駅前と言えば中村屋を思い浮かべる人も多い。今の場所に移ったのは昭和8年。それまでは高梨肉屋<現在、補聴器屋のある建物>の所でパンを焼いていた。
中村屋のご主人、長束正実さんの談話。

私の親父が昭和2年、高梨肉屋さんがある所にパン屋を開店したので、写真に撮ろうと思って駅前付近からカメラをかまえて写したんだそうですよ。ところが、そのすぐ前に交番と憲兵の派出所というのがあって、早速その憲兵に写真を写しているところを取り押さえられてしまった。当時から要塞地帯だったんで、あまりおもてで写真を写してはいけないということになっていたのに、こっちは東京から来たばっかりで知らないで写真を写していたら、憲兵隊に怒られてフィルムを持っていかれた。
長須賀の知り合いが憲兵司令を退職して館山で暮らしていたそうです。
その人に憲兵隊からフィルムを取り下げて戴いた。写っている写真が1枚あるんですよ。


※当時の写真撮影が厳しかったのはどこかの国のようですね。
そういえば戦時中、列車が大房にさしかかると車窓のカーテンを閉めさせられたという話を聞いたことがあります。大房の砲台や施設の位置が分からないようになのかもしれませんね。

駅前回顧録4

昭和40年代の「タムタム館山」というタウン誌の記事を紹介しています。
今回はインタビュー記事の4回目になります。
松田屋さんの隣にあった明石酒屋のおばあさんは震災の翌年の大正13年に
こちらに嫁いでこられたそうだ。その息子さん明石順さんは昭和9年生まれ。
CIMG1588
おばあさんの話から聞く。
別荘なんかがありまして、その頃避暑っていったらお金持ちしか来ない避暑でしたからね。お金持ちがみんな八幡の海岸に別荘持ってて、冬は閉めちゃってるんですけど、夏はそこへ来て長逗留する。子供さんがあれば夏休みこっちへ来て、夏休みが終わると帰る。夏のこの辺の商店ね・・うちは早い方だけど、それでも10時頃までやってた。今みたいに6時か7時頃で暗くなっちゃうなんてことはなかった。どんな商売でもずうっとあけてて、遅い所は12時頃まで人通りが結構ありましたから。



CIMG1589出兵兵士の見送り、強制的にやらされたんでしょうか、その度に旗持ってきたんじゃないのかなあ。戦争が始まった昭和16年の時、少学2年でしたから。国防婦人会なんてタスキかけてね。この前の通りを通っていった・・・。
「当駅発9時8分の列車、きまってこの時間だった」って北条小百年史に書いてあるよ、出兵兵士の出発する時間。
そうだねえ、それが遺骨になって帰ってくると、やっぱりそれを迎えに来て遺族の家まで並ぶのね。最初のうちは何だか随分丁寧にやってたけど最後の方になったら、数が増えちゃって粗末になっちゃった。



CIMG1580 - コピー (2)早川雪州っていう千倉の人がアメリカから帰ってきた、その時のパレードがありました。駅前ロータリーができてたのかな、高橋祐二さんと握手するニュース映画があって、映画館でそこだけグルグル回して同じやつを何回も見せられた覚えがありますね。郷土の生んだスターだというので何回も握手する。私が中学校の2,3年とすると、昭和22,23年頃ですか。
夏になると駅前でよく映画会をやって、あれは避暑客の慰安という感じだね。そこでもって溝口健二の「祇園の姉妹」っていう映画をみた記憶がある。駅前の今の自動車区のほうですね。あそこに保線区の建物があったね。それは今のブックパーク松田屋さんの黄色いビルの建ってるちょっと脇ぐらい、その前のスクリーンで蚊に食われながら見た。

※ そういえば、昭和30年代生まれの僕にも想い出がある。あの黄色いビルは松田屋さんの本屋だったのかあ、そしてカミヤマレコードさんのあった店舗は十字屋さんの支店でしたね。駅前ロータリーには学生時代にロッテリア、サーティーワンアイス、モスバーガー、魚民の所はマクドナルドと目まぐるしく店が現れ、消えてゆきましたね。いまは駐車場になってしまいましたね。駅前は閑静な住宅地にっ!
このシリーズはまだ続きます。





駅前回顧録3

CIMG1584北条海岸に酒は飲ませません、
麻雀もってのほかという時流に逆らった
民宿「みどり荘」のご主人、
吉田さんこと森正夫さん。
大正5年生まれ。

いまのブックス松田屋の所に
「大珍宝」という名前の食堂があった。
その大珍宝が吉田さんの家である。
これは吉田さんの父親の話。




CIMG1580 - コピー (2)白浜の岩目館の先々代に森田新太郎って言う人がいた。いま生きていれば<昭和40年代>、120歳くらいになるかなあ。博打を打たない大親分だった。駅前の店によく来たけど、白髪頭の身丈6尺もある大きな人だった。千倉に一力っていう博打うちの親分がいる。その人に縄張りゆずって堅気になった。大正3年の5月に、3日3晩寝ずにお祭りやって、親分譲りの式をやったそうです。
その親分を清水次郎長に例えると、うちのおとっつぁんは、一の子分だったから大政みたいなもんだ。縄張り譲っちゃって家にも帰れない。どこにも行けない子分が50~60人残った。うちのおとっつあん勝次郎って言うんだかんね。親分に「おい、勝っつあん、おめえがこの子分たち引きとって面倒みてやれ」って頼まれた。それじゃあ駅ができるから、人力車でもやれば、って人力車始めて、みんな車夫になった。うちのおとっつあんは人力車の組合長になった。
けど、自分は駅前で飯屋、一膳飯屋を始めた。日東バスの宮城行の乗り場がある所に人力車の駐車場があった。その頃はうちは土間だったからね。人力車の車夫が来て、炭くべて、うちで時間待ちしてた。

駅が開業したとき、水田三喜男さんは安房中<現 安房高校>の2年生で寄宿舎にいた。先輩がみんなを並べて何を教えるかと思ったら、これから切符の買い方を教えるって言うんですよ。「どこそこから、どこそこまで行く者ですが、切符を一枚売ってもらいたい」と言って買えと教えられた。次の日、一駅乗るんで、せいれつして並んで切符売りにおじぎして買った。

大珍宝の裏には馬小屋と蹄鉄屋と牛舎が並んでた。あんたら、へえ~って思うだろうけど、駅から降りてきて今の丸通ね、あのへんは全部馬小屋だったんだから。馬糞が積んであって、駅から丸見えだったんだよ。ついこの間まで。ーーートラック輸送が始まるまでは、すべて荷馬車が主力だった。駅前には一時期、4軒の運送屋があって、すべて馬力に頼っていた。



駅前回顧録2

CIMG1583今回は数年前まではあった
松田屋さんの松井正一さん。
駅開業時は小学2年だった。
明治40年生まれ。

南町の安藤病院の所にうちの店があった。
駅ができると同時に今の場所に支店を出したんですよ。
本、文具、夏場だけ土産物やってた。
あの頃は商売が初歩の頃でねえ。みんなよろずやみたいにやってたけど。ラジオを入れたのが大正13年、古かったですねえ。駅前の清風楼に泊まってたラジオの技師が家へやってくれって言ってきて、試験放送のじぶんだなあ、ラッパのラジオでね。いろんな人が聞きに来た。
CIMG1580 - コピー (2)
うらに馬小屋があって馬が糞したやつを掃除して歩いたりしたんだけどね。舗装じゃなかったし、雨が降ればぬかる道だった。
ーーー松田屋さんは夏だけ喫茶店をやっていた。アイスクリームが看板だったとか。
大正の地震以降でしょうねえ。うちのおふくろが凝り屋だったから
神田の今川小路に風月堂があった。そっからコック呼んでね。
その時分の館山の避暑客っていうのは中流以上の人が多かったから
こっちには旨いもんがないっていうんで。
長須賀の明治乳業の工場があり、あそこまで生クリーム取りに行った。ちゃんと玉子入れて、バニラとかチョコとかエッセンス入れて、昔のアイスクリームの方がうまかった。
私は楽器の方を主にやってた。八幡の祭りの時なんか、大正琴がよく売れた。
岩波文庫は知識層や学生が来る夏だけ置いていた。
改造文庫、円本っていってたけど、これがよく売れた。

昭和5年頃からレコードも扱ってた。鏡軒なんか蓄音機置いたから。
ポータブル蓄音機ってコロンビアから35円で、かなり売ったですね。
うれたレコード・・・「東京行進曲」これがかなり流行った。
「君恋し」「酒は涙かため息か」「影を慕いて」などね。

戦時中、高梨肉屋<今の補聴器屋さんのある建物>の2階が物品交換所でね。
「森の石松」のレコード一枚持っててね、それ出して酒一升ととっかえてきたら
飲んでみたら水っぽいやつでさ、アハハ。いろんなことがあったよね。


駅前回顧録1

CIMG1581昭和40年代のタムタム館山誌の
インタビュー記事「駅前回顧録」の
トップを飾るのは、安房屋のおじいさん、
佐久間徳松さん。明治25年生まれ。

駅ができる前は、
この辺に店なんか一軒もなかった。
ここいらは漁師の家が何軒かあった。
その頃は魚が捕れたからね。
魚は買って食べるんじゃなく、
もらって食べるもんだった。



CIMG1580 - コピー (2)ーーーお菓子の安房屋は戦前、徳松さんが印刷屋もやっていた。ここに越してきたのは大正8年前後、駅前の住人の中では最長老。
六軒町や銀座通りは以前は田園地帯だった。丸通を作ろうというので田園を潰した。その田園の真中に弁天様があって、丸通で潰した。そいで丸通の社長になると死んじゃう。また変わると死んじゃう。とうとう社長のなり手がいなくなっちゃって、仕方なく弁天様をもう一回祀った。いま宮城の頼忠か、あそこに弁天様祀ってある。
ーーーこの弁天様、頼忠寺へ移される前は日東交通の前にある
黄色いビルの建っている所にあった。頼忠寺へ移したのが戦時中。二転三転した弁天様なのである。駅前にあったときは、毎月25日に縁日が開かれていた。それから観音様が日東交通社屋の所にあった。これも終戦後、中村公園の所に移され、戦災者記念堂と名を変えている。


館山モダン4

CIMG9579CIMG9580震災前の大正期の館山駅前通りです。関東大震災でほとんどが倒壊したので、震災後は経営者も変わって現代に至っていく。

大正8年、汽車開通。僕の祖父は蒸気機関車の運転手で館山への最初の運転手でした。当時は「館山駅」ではなく、「安房北条駅」です。駅は平屋建てでした。

道路の右には、吉野屋乾物店、幸田旅館別館、旅館小松屋、旅館鏡浦亭などの案内所があった。
左側には、紋屋旅館、福力、福岡などの飲食店、丸通運送があった。
これらの建物は震災ですべて倒壊した。

<写真は仲町 君塚文雄さんのものより>

スーパームーンの出

CIMG9249スーパームーンの月の出を
三芳の金比羅山から撮ろうかと
思いましたが天気が気になり断念。

館山駅西口で待ちました。
午後7時前に思ったより南から
月の出がありました。
でも、すぐに雲に隠れて
見えたり隠れたり。。。
前回は1997年、ビーチボーイズの
年とあってワクワクでしたが、
かろうじて。。。

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CIMG9251CIMG9248

絵になる駅

CIMG9046CIMG8894電車の本数が減っても
館山駅は、街の玄関ですね。

館山駅は昭和の木造の駅も
素敵な駅でしたが
いまの駅も絵になりますね。
西風が強い海側の西口は
春には暴風を受けています。

窓枠がおしゃれなので
陽の光が駅舎内に入った時に
影絵ができるように
工夫されれば、この窓も
評価されたかもしれませんね。
海に向いて西風を受けていると
窓ガラスの清掃は必須、大きい
窓は毎日の清掃は難しいですね。
ビーチハウスのようなイメージ
が欲しかったなあ。。。

ぼくの中で物語が見えたら、
海側で潮風を受ける館山駅も
切り絵にしてみたいと
思っています。

一枚の額の中に、想い出とか、思い入れとか、その光景にストーリーが見えているんですよ。

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ビリー工作キット昭和シリーズ
ぼくらの夏は終わらない 1997年夏の月9ドラマ「ビーチボーイズ」に酔いしれる。館山市布良でロケ。
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