凪の父親は内科医で、都内の大学病院に勤務している。門前仲町に家を借りて住んではいるが、いつかは実家のある館山に戻るつもりでいる。祖母は3年前に亡くなり、祖父も高齢だったので、東京と館山を行き来する家族だった。
1363516899_2622212凪は中学受験でG学園に入学した。
祖父も両親も弓道部への入部をすすめていたので、弓道部を探したが弓道部はなかった。
過去には歌舞伎役者で笛吹童子の東千代之介さんが、在学中に弓道部を作ったという話を聞いたが、それは凪が生まれる前の、はるか昔の話だった。


凪は祖父の道場で早稲田大学の稲垣範士の教えを受けていて、祖父も両親も凪が弓道を続けることを望んでいたが、クラブ活動で続けることはできなくなった。祖父は家に弓道場があるのだから、ここで弓道を続けていて、大学に入ったらまた弓道部でやればいいと話していた。中学生の凪は。弓道の本当の良さを、まだ理解してはいなかった。祖父も父も自らの経験から、人間の成長には弓道は大切なことを教えてくれると諭していた。しかし、凪のこれまでの経験からは、弓をひく大人たちから様々な指摘をされてきた面倒くささがあった。弓道とゴルフに関しては、人の所作にいちいち口をはさんでくる人が多いのはなぜだろうか。
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ミユキは杉並の東田町の出身だ。中野から西田町行きの関東バスにのり、東田町か東洋幼稚園前で下車して、五日市街道を5分ほど入ったところに家がある。バスが中野から出て青梅街道に出ると、地下鉄丸の内線の東高円寺のえきがある。ここには広大な敷地に蚕糸試験場という施設があるが、ミユキには薄暗い大きな建物があるというイメージがあり、何をしているところなのだろうかという疑問はいまだに持っている。
ミユキの使うバス停の隣の成宗バス停から毎朝乗ってくる常田富士夫さんとは顔なじみだった。常田さんは米倉斉加年さんたちと劇団青年劇場を結成して、「巨泉・前武のゲバゲバ90分」で人気があった。ミユキの母と凪の母が大学の同級生ということで、ふたりは幼なじみとして、親しい仲となっていた。ミユキは中学に入ると、先輩から支部道場を紹介されて弓道を始めた。女子大生の先輩が弓をひく姿は本当に美しかった。弓道八節というが、どこをとっても流れる水のように美しかった。ミユキはいつか自分もこんな弓をひきたいとあこがれを持って修行に励んでいた。高校は弓道部のある学校に行くと心に決めていた。

凪の祖父は、千葉県館山市の実家に弓道場を開いて住んでいた。そんな祖父も亡くなり、家の片付けと掃除に夏休みを利用して凪は母とともに館山の実家に訪れていた。
弓道場で祖父の持ち物を片付けていた凪は、棚の上の年賀状を手に取った。そしてその中に偶然だったが、竹下氏に関しての大きなヒントを見つけた。年賀状の中に、飯田橋の山田弓具店という文字から、途切れていた祖父の親友探しの歯車がカラカラと回りだしたようだ。もし、富士見周辺に竹下氏が住んでいて、しかも弓道をしているとすれば、そこから見つけることができるんじゃないか。
「母さん、じいちゃんは弓のことで山田弓具店とよく連絡を取っていたけど、山田弓具店ってどこにあるの?」
「そうねえ、九段下の駅から近かったと思うよ」
「ほんと?ビンゴだ」
調べると、九段下のホテルグランドパレスの数軒先の並びの目白通り沿いにあることが分かった。そこで聞けば、竹下氏のことが分かるかもしれない。凪は胸が躍るようだった。

その日の夜、このことをミユキに興奮気味に連絡を取った。
「ミユキちゃん、あさって東京に帰るから、次の日曜日行ってみようと思うんだ」
「じゃあ、私も行く」

      〈続く〉
※東高円寺の蚕糸試験場
明治時代から蚕糸業という日本の重要産業をけん引してきた農林省蚕糸試験場があった。堀に囲まれた大きな施設だった。建物が残っていれば、富岡製糸場のような名所になっていたかもしれない。東京の人口過密を解消する政策で、約70年間、高円寺を拠点としてきた蚕糸試験場は1980年〈昭和55年〉に、茨城県つくば市へ機能を移転。歴史ある建物も5年後に解体されて、跡地は蚕糸の森公園と杉並第十小学校になっている。ミユキの母は明るい人なので、凪の母が遊びに行ったとき、バスの運転手が「次は蚕糸〈さんし〉試験場前~」と言うとすぐに当時大人気の桂三枝〈さんし〉さんの真似で「いらっしゃい~、オヨヨ」と言って母を笑わせていたそうだ。