昭和40年代の「タムタム館山」というタウン誌の記事を紹介しています。
今回はインタビュー記事の4回目になります。
松田屋さんの隣にあった明石酒屋のおばあさんは震災の翌年の大正13年に
こちらに嫁いでこられたそうだ。その息子さん明石順さんは昭和9年生まれ。
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おばあさんの話から聞く。
別荘なんかがありまして、その頃避暑っていったらお金持ちしか来ない避暑でしたからね。お金持ちがみんな八幡の海岸に別荘持ってて、冬は閉めちゃってるんですけど、夏はそこへ来て長逗留する。子供さんがあれば夏休みこっちへ来て、夏休みが終わると帰る。夏のこの辺の商店ね・・うちは早い方だけど、それでも10時頃までやってた。今みたいに6時か7時頃で暗くなっちゃうなんてことはなかった。どんな商売でもずうっとあけてて、遅い所は12時頃まで人通りが結構ありましたから。



CIMG1589出兵兵士の見送り、強制的にやらされたんでしょうか、その度に旗持ってきたんじゃないのかなあ。戦争が始まった昭和16年の時、少学2年でしたから。国防婦人会なんてタスキかけてね。この前の通りを通っていった・・・。
「当駅発9時8分の列車、きまってこの時間だった」って北条小百年史に書いてあるよ、出兵兵士の出発する時間。
そうだねえ、それが遺骨になって帰ってくると、やっぱりそれを迎えに来て遺族の家まで並ぶのね。最初のうちは何だか随分丁寧にやってたけど最後の方になったら、数が増えちゃって粗末になっちゃった。



CIMG1580 - コピー (2)早川雪州っていう千倉の人がアメリカから帰ってきた、その時のパレードがありました。駅前ロータリーができてたのかな、高橋祐二さんと握手するニュース映画があって、映画館でそこだけグルグル回して同じやつを何回も見せられた覚えがありますね。郷土の生んだスターだというので何回も握手する。私が中学校の2,3年とすると、昭和22,23年頃ですか。
夏になると駅前でよく映画会をやって、あれは避暑客の慰安という感じだね。そこでもって溝口健二の「祇園の姉妹」っていう映画をみた記憶がある。駅前の今の自動車区のほうですね。あそこに保線区の建物があったね。それは今のブックパーク松田屋さんの黄色いビルの建ってるちょっと脇ぐらい、その前のスクリーンで蚊に食われながら見た。

※ そういえば、昭和30年代生まれの僕にも想い出がある。あの黄色いビルは松田屋さんの本屋だったのかあ、そしてカミヤマレコードさんのあった店舗は十字屋さんの支店でしたね。駅前ロータリーには学生時代にロッテリア、サーティーワンアイス、モスバーガー、魚民の所はマクドナルドと目まぐるしく店が現れ、消えてゆきましたね。いまは駐車場になってしまいましたね。駅前は閑静な住宅地にっ!
このシリーズはまだ続きます。