御茶ノ水駅の聖橋口の改札を出ると、凪とミユキは本郷通りを淡路町に向かって坂を下っていった。ニコライ堂の裏手を見上げる位置に、地下鉄千代田線の新御茶ノ水駅への離れた入口ができた。坂道に出来た幅広い空間に入ると、長いエスカレーターまでの踊り場にカウンター席だけの小さなコーヒーショップがある。ここが凪の見つけた、中学生としてはちょっぴり背伸びの店だった。オレンジジュースとホットドッグを注文して、カウンターの奥から詰めて座った。昭和45年、ふたりとも中学2年の春を迎えていた。地下鉄千代田線は、1969年の12月に北千住から大手町間が開業したばかりの新しい地下鉄路線だ。車両には緑のラインが入っている。御茶ノ水駅口から地下鉄に向かうと、丸ノ内線よりもはるか地下に造られた千代田線のホームに向かう長い長いエスカレーターが続く。ニコライ堂裏手の駅入り口は静かな穴場のような居心地の良い場所だった。
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「じつはさあ、じいちゃんが暮れに亡くなったんだけど、じいちゃんから頼まれたことがあるんだ。じいちゃんには、弓道のライバルで親友がいたらしいんだ。竹下という人なんだけど、その人への手紙を預かっちゃたんだ。父さんではなく、僕から手渡して欲しいと言われたんだ。大事な手紙みたいなんで僕も渡さなきゃと思ってる。ミユキちゃん、その人を探すのを手伝ってくれないかな?」
「いいわよ。早く見つかるといいね」
「サンキュ、じいちゃんは亡くなる前にどうしても会いたかったらしいんだけど、電話もつながらないし、知り合いに聞いても分からなかったみたいなんだ。飯田橋の富士見の坂の所に住んでいたらしいんだけど、引っ越しちゃったのかなあ」

カウンターに置かれたオレンジジュースのグラスに紙封を切って取り出したストローを入れながら、ミユキは目を輝かせて言った。
「よし、じゃあまず千代田区富士見辺りの坂道を調べて、地道に聞き込みかなあ」
「おいおい、テレビの見過ぎかよ。刑事ドラマみたいで楽しそうだね」
「うん、こういうのけっこう好きかも」
オーブントースターのチンという音がして、ふたりの目の前に運ばれたホットドックが湯気を立てていた。共同活動を得てやる気に充ちたミユキは、ケチャップと少しのマスタードをしぼり、ひと口かぶりついた。
「わあ、おいしい。あ、これってもちろん凪のおごりだよね」
「え? まいっか」
凪はいつものように、ホットドッグを包丁で少し斜めに二等分してもらい、ケチャップとマスタードを同じ長さにしぼり出して、食べ慣れたこの店のホットドッグを口にした。
「なぎ~ィ、切ってもらったの? そういう裏技があるなら早く言ってよ。すいませ~ん、私のホットドッグも半分に切ってください」
カウンターの中の店長は、笑ってミユキのひと口欠けたホットドッグを半分に切ってくれた。ちゃっかりした話しやすいミユキと一緒にいることに心安らぐ凪だった。その日の夜、ミユキは千代田区富士見にある坂道を、地図からチェックしてくれたようだ。世の中は三月に起こった日航機よど号事件の余韻と、開幕した大阪万博の賑わいで落ち着かない1970年、昭和45年の春だった。

日航機よど号事件に触れておこう。3月31日、羽田空港発板付空港行きの日本航空351便〈よど号〉が、富士山上空を飛行中に日本刀、けん銃、爆弾とみられるものを持った赤軍派を名乗る9人によってハイジャックされた。犯人グループは北朝鮮へ亡命するために飛行機を北朝鮮に向かうよう要求していた。よど号は板付空港と韓国の金浦空港へ着陸し、乗員乗客を順次開放したが、人質となっていた乗客の身代わりに搭乗をかって出た山村新治郎運輸政務次官を乗せて4月3日、北朝鮮の美林飛行場に着陸し、犯人グループはそのまま亡命した。これは日本で初めてのハイジャック事件となった。金浦空港では、韓国兵が朝鮮人民軍兵士の服装で平壌到着歓迎のプラカードで偽装工作をしたが、犯人グループに見破られてしまった。乗客の代わりに人質となった山村新治郎運輸政務次官は度胸が据わっていてかっこいいとニュース視聴者の立場からは賛辞が上がっていた。凪の父親は、山村氏はこれで男を上げたと千葉県選出の山村氏を同郷ということもあって誉めていた。中学生の凪はテレビの画像にしがみついて、何が起こっているのかと夢中になっていたのだった。
   〈続く〉