潮騒が聞こえる〈BEACHBOYS1997〉

たそがれ時を過ごす場所。Costa del Biento / Sionecafe

館山小説 潮騒が聞こえる

9話 TATEYAMA 3

 夢の女性

1411460814_1678517館山湾に沈む夕日を見送った後、凪は渚銀座の「小料理 藤子」に向かった。渚銀座というのは、館山駅の海側に広がる飲食店街を言う。昭和の時代には星野哲郎作詞、中川博之作曲、山田太郎の歌唱でレコードが発売された「花の館山」という楽曲の中でも歌われたエリアである。小料理 藤子は、夕日を見た海からは、歩いても5分もかからない。凪は久しぶりに藤子の暖簾をくぐった。

「こんばんわぁ」

「あら、凪くんじゃない、いらっしゃい」

「久しぶりねえ」

「はい、2年間留学していたものですから」

「ええ? 留学って外国に行ってたの?」

「はい」

「あ、じゃあ石井くんのおかえり会の予約って、凪くんのことだったんだ」

「はい、お世話になります」

しばらくして、幹事の石井が入ってきた。同級生の本橋と大野を伴っていた。カウンターの席を借りて、同級生の飲み会が始まった。茂木寿司から、凪の大好きな蒸しアワビの甘ダレ寿司を石井が持ってきてくれた。これは季節限定のものなので、これを見た凪は躍り上がって喜んだ。

「凪くんの大好きな、だるまイカが入ってるわよ」

「ほんとですか、あれはおいしいですよね。やわらかくてふんわりしていて、のど越しがよくて。ぜひお願いします。楽しみだなあ」

凪にとってこの二つは大好物なので、盆と正月がいっぺんに来たような気持ちになった。

「そうだ、みどりがいま館山にいるらしいから、電話かけてみようか?」

「ああ、みどりちゃんもどこかに留学してたんだよね」

「そうそう、あいつは美術系だからスペインのバルセロナだよ。おまえにしてもそうだけど、よく留学するって決めたよね。俺は日本が一番・・」

「あれ?みどりの留学の話を聞いた時、石井も一緒にいきたかったんだろ?」

「大野! それを言うか?」

「石井、おまえみどりが好きだったもんなあ」

「お、本橋まで・・・」

「オー、ノー・・」

「あれ?いまのしゃれだったの?」

場が和んだ。どんなに時が流れても、幼なじみは何を言っても大丈夫だ。すべて理解してくれていて、話をうまく返してくれる。
 石井は留学から一時帰国している同級生のみどりの電話番号を調べようと、財布からみどりの名刺を取り出した。そのとき、石井の財布から一枚の写真が落ちた。凪はそれを拾って石井に渡そうとしたときに、写真の若い女性を見て愕然とした。その女性こそ、英国で、凪の夢に現れてきたあの女性だった。写真を手に取って、しばらくの間、凪は金縛りにあったように動けずに写真の女性を見つめていた。

CIMG0527「石井、このひとは・・・」

「ああ、俺のじいさんの妹なんだ。おばさんが十七歳くらいの写真なんだけど」

「どうして石井が持ってるの?」

「命日が近いんで、じいさんから大きな写真にしてくれと頼まれているんだ」

石井は、凪から写真を取って財布にしまおうとした。

「もう一度みせてくれる?」

「いいけど、えっ? 何?」

写真の女性を見て、凪の胸は高鳴った。ドキドキして体の奥から何かが湧いてきた。

「へえ、十七歳?若い時に亡くなったの?」

「ああ、美人薄命って言うのかな、病気で亡くなったらしいよ」

凪の夢に出てきた女性だったということは、石井には言わなかったが、凪はこの女性に魅かれていた。時を超えて会えるものなら会いに行きたいと思っていた。凪は石井に写真を渡して、夢の女性の情報を得られたことに感謝した。

「ところで、石井はもう仕事は慣れた?」

「うん、まあな。でも人間関係はむずかしいよ」

「え、石井からそんな言葉を聞くことになるとはなあ。おまえはクラスのリーダー的な存在だったからなあ」

「本橋くんはどうなのよ」

「本橋はさあ、マラソンからスイミングから大会にはすべて出てるよ。そうそう、トライアスロンも出るんだよな」

「ああ、おれは親の後を継いだだけだから、問題なしよ。凪はどうすんの?」

「ふたりのようにまだ働いていない学生だから、何も言えないよ。大野は?」

「おれは漁師だぞ。ただそれだけさ」

「ところで、凪はあしたは暇か?赤山の見学会があるんだけど、付き合ってくれないか」

「赤山って、あの戦跡の赤山?」

「ああ、ガイドさんの話を聞いて、市役所職員も学ぶんだよ。見学の人数にキャンセルが出たから、かわりに参加してよ」

「石井の頼みじゃ断れないじゃん」

「お、宮仕えの俺を、まだリーダーとして扱ってくれるの?」

「うん、その代わりと言っちゃなんだけど、さっきの写真さあ、焼き増しして僕にくれないかなあ」

「ええ? 死んだおばさんだぜ、なんなのそれ?」

「運命っていうか、宿命っていうか・・・」

「おまえは、あほか」

「頼む、石井。一生のお願いだ」

「何だか知らないが、分かったよ。あした写真屋に行くから頼んどくよ」凪はおかしいことを言ってるのは分かっているのだが、居てもたってもいられないような、おかしな高揚感が凪にそんな発言をさせている。恋というか、生き別れた家族に出会えたような、それはそれは不思議な感情の中にいた。

0614 003藤子さんがだるまイカを持ってきた。

「はい、お待たせしました」

「わあ、久しぶりのだるまイカだあ。いただきます。やわらかいなあ、おいしいです」

「それはよかったわ。外国にはこんなおいしいものなかったでしょ」

「はい、日本はおいしいものだらけですよ」

「ところで、凪くんは留学してたんだって?どこに行ってたの」

「あ、英国のロンドンにあるハムステッドというところです」

「外国の彼女できた?」

「いえ、そこは奥手なので、でも友達はたくさん出来ましたよ」

「なんだよ、イギリスのかわいい娘を紹介してもらおうと思ってたのに」

「石井くんは、その前に英語習わなっきゃね」

「は~い」
「こんばんわあ」

石井の好きなみどりがやってきた。酒にほろ酔いの石井の眉毛が、さらに八の字に下がる瞬間だった。

「おお、みどり、元気だったか?」

「石井君も、相変わらず変わってなさそうね」

「あ、凪くんひさしぶりね。留学してたんだって? さっき電話で石井君に聞いたよ。どこに行ってたの?」

「ああ、英国のロンドン」

「ロンドン、ロンドン、愉快なロンドン、素敵なロンドン♪」

「おい石井、それって昔のCMじゃんか」

「もう、石井君ったらあ・・・」

「おっ、なっつかしいねえ。みどりの『石井君ったらあ』は高校以来じゃねえか?」

「そうだな」

「私も美大に行ってて、去年はスペインにいたのよ」

「え、知ってれば向こうで会いたかったね」

「そうね、凪くんなら石井君みたいに悪酔いしないしねえ」

「おいおい、君たち。世界をまたにかけたデートの話かい? ここは房総半島の南端にある小さな館山だぞ」

「石井君ったら、もう酔ってるの?」

「藤子さん、カラオケ、カラオケ・・・」

「はいはい、何入れる?」

「石井の好きな『旅立ちの日に』ね」

「ああ、卒業式の日も石井はこれを歌って泣いてたなあ」

♪ 白い光のな~かに~ 山並みは萌えて~

歌いながら、同級生に囲まれた石井は大泣きをした。役所勤めの辛さはこの石井にもあるんだなあと、みんな石井の歌を聞きながら、それぞれの道に進んだ人生を見つめて、小さく乾杯をした。この夜は、日本に帰ってきたことを感じさせてくれる楽しい夜になった。同級生5人でカラオケを歌い、午前1時を回ってお開きとなり、帰宅した。石井からは翌日の赤山見学会で会うことをしつこく言われていた。ひとつ心配だったのは、かなり酔っていた石井がみどりを家まで無事に送っていったかだ。千鳥足の石井は逆にみどりに送られたのかもしれないと、帰り道が同じだった本橋と話していた。

10話 TATEYAMA 4

  赤山地下壕

images赤山地下壕は館山航空隊基地の南側に位置する赤山にある全長1.6キロメートルの地下壕と巨大な燃料タンク2基が残っている。戦時末期は本土決戦に備えて大規模に堀削されている。大部分はツルハシによる素掘りである。
壕内には戦闘指揮所、指令室、医療施設、兵舎、航空機部品の格納庫、燃料貯蔵庫、発電所と思われる場所がある。要塞機能を持つ地下壕である。
石井の誘いを断り切れなかった凪はいま赤山地下壕にいる。館山に住んでいたが、赤山戦跡を訪れるのは初めてのことであり、この日の予定も特になかったので石井に付き合うことにした。その石井もガイドの説明をこまめにノートに書いているようだ。

19492-img-sub1_list「昨日はみどりを家までちゃんと送ていったの?」
「あはは、覚えてないんだよ。でも、朝になったらちゃんと自分の部屋だったから、無事に送ってから家に帰ったんだと思うよ」

二日酔いを隠して、石井は公務員の顔に戻っていた。石井が真面目にノートをとる姿は高校時代には見なかった一面だった。石井も社会人として成長しているんだと、凪は刮目して見ていた。

地下壕の通路は洞窟のように続くが構造的な広さは東京駅地下街を思わせる広さだ。洞窟の中を右へ曲がり、奥へ奥へと進む。壕の中はひんやりとした空気が漂っている。外の暑さをしばし忘れることができる。戦時中とはいえ、こんな地下壕を人が掘ったということに凪は驚いていた。
 
 東京湾の入り口に位置する館山は軍事的に重要な場所にある。大房岬〈たいぶさ〉もそうだが、戦跡が生々しく残る地域だ。戦時中には、館山駅を発車した汽車が、富浦の大房岬に近づくと、汽車の窓のカーテンを閉めなければいけなかったと凪は祖父から聞いていた。大房岬に置かれていた大砲の位置が乗客には分からないようにするためだったらしい。赤山地下壕のガイドの話は現実かと疑うような話だったが、この地下壕を見せられては、その話も現実味を帯びてくる。戦争は遠い昔の出来事だと思っていた世代の凪たちが、戦争が身近で起きていたことを実感する施設だった。
《海上自衛隊基地の南側に、戦時中から赤山と呼ばれる標高60mの山がある。この岩山の中に、総延長2キロメートルに及ぶ地下壕跡や巨大燃料タンク基地跡などが残っている。航空基地建設の時に地質調査を行い、海軍の特殊専門部隊によって建設されたと言われている。大部分はツルハシなどによる素掘りで、1930年代半ばから極秘で建設され、掘った土砂は埋め立てに使ったという。実戦用として使ったとすれば、全国でも珍しい地下軍事施設である。地下壕内部には、司令部、戦闘指揮所、兵舎、病院、発電所、部品格納庫、兵器貯蔵庫、燃料貯蔵庫があったと想定できるほど広大なものだ。》と、石井のノートには、赤山地下壕の概略が記されていく。的確な記録能力に驚いた。ガイドの話をぼうっと聞き逃していた凪は、石井の違った一面を見せられて、人は変わるものだと感心していた。



images (1)見学者は奥へ奥へと進んでいく。凪は留学先のハムステッドを思い出していた。ボビーに連れられて行ったハイゲート墓地のドラキュラ伝説のあるあの建物のことだ。棺が暗い洞穴のようないくつかの部屋に置いてあり、バンパイヤハンターによる吸血鬼狩りがあったために棺のふたが壊されているあの情景が蘇っていた。澱んだ空気は、この赤山地下壕にも漂っていると直感していた。ハイゲート墓地との共通点がリンクして、凪の体に一筋の震えるような戦慄が走った。

その時である。説明を聞きながら上方を見上げると、突然の異変に気が付い
た。見学コースにつけられた電気が大きく揺れている。やがてミシミシという音がしたかと思うと、突然ガタガタと地面が揺れ出した。

ゴー! ゴー! と外からものすごい音がやってきては地下壕の奥に向かって走り去る。

「地震だ!これは大きいぞ!」

「みなさん、ヘルメットで頭を守ってください」

これまでに経験したことのない地震に、みんなそれぞれに平常心を失っていくのが感じられた。目が回るような体の浮遊感が見学者たちを襲った。地下壕の中を生暖かい風が通り抜けるのを感じた。再びガイドから落石に注意するように声がかかった。石井はノートで頭を隠していた。上下に激しく揺れて、しばらくして大きな横揺れとなった。船酔いにも似た気持ちの悪さが凪を襲っていた。ガラスが床に落ちて砕け散る音が耳に響いてきた。地下壕内の電気が消えて真っ暗となり、ゴーという地鳴りのような音が見学者たちの叫び声を消してしまった。石井と凪は動けずに、その場で座りこみ、小さな落石から頭を手で守った。外で大きな雷のような音が響いている。これは大きな地震だ。外での被害は大丈夫だろうか。早くしずまれと凪は心の中で叫んでいた。灯りのない地下壕のなかで、地震に誘発された凪の眩暈はぐるぐると回っていた。自分の体が、波の中の木の葉のように回っているようで自由が利かない。ものすごい圧力を頭に感じて、凪は我慢が出来なくなって大声を上げた。

「わーああー」

深い深い渦巻の底に向かって落ちていく、そんなイメージの中で頭を抱えて体を丸くしている。長い眩暈の中で、瞬間の深い眠りに落ちた。


11話 Part4 Into a Dream

   掩体壕

どのくらいの時間が経ったのだろうか、数分にも数十分にも思える中で、目を閉じて恐怖が過ぎ去るのを待っていた。しばらくして我に戻った気がした。ずれていたカメラのピントがカシャッと合った瞬間のようだった。少しのあいだ意識を失っていたのかもしれない。いまは眩暈もない。しかし、体を丸くして腹部を守り、頭を抱えて横になっている。あの大きな地震はおさまったようだ。あたりは暗く感じる。石井は?見学者のみんなはどこにいるんだろう、大丈夫だったのだろうか?凪は薄暗い地下壕の中で息を落ち着かせていた。

「おい、お前はここで何をしているんだ」

突然、凪は腕をつかまれ引っ張られた。横になっていた体も起こされて、手荒に引きずられた。

「何するんだよ、痛いじゃないか」

「何?ここは民間人は立入禁止だ。こっちへ来い」

凪に話しかけているのは怖い顔をした日本兵だった。手をつかまれて薄暗い地下壕を進むと、すれ違うのは戦時中の日本兵ばかりだ。凪はぼうっとしていて、目の前で繰り広げられる光景が夢の中のように思えた。しかし、これはモニタリングでもテレビ番組でもない現実なのだ。

「こっちへ来い、早く歩け」

凪は上官の部屋へ連れていかれるようだ。奥の部屋に連れてこられたが、上官は緊急の会議で、隣の会議室へ行っていて部屋を空けていたようだ。廊下でベルが鳴った。それを聞いて、なぎの手をつかんでいた兵士が部屋を出ていった。

「お前はここで待っていろ」

凪は部屋に残された。ひとりで為すすべもなく、静かに立っていた。部屋の壁には古い館山市内と思われる地図が貼ってあった。ここは赤山地下壕の中なのだろうか、日本兵のようないでたちの人たちは、ここで何をしているのだろうかと、凪の疑問は膨らんでいった。すると、隣室から何人かの大きな話し声が聞こえてきた。

「米艦ミズーリが東京湾を目指している」

「米軍が館山に上陸してくるかもしれない」

「いよいよ本土決戦だな

「その情報は確かなのか?」

「我々は最後まで戦い抜く」

「ゼロ戦を掩体壕に移す」

「房総半島には7万人近い軍隊が配備されている。態勢を整えろ」

「鋸山を最後の抵抗陣地として米軍を迎え撃つ」

通路をけたたましく走る音がして、地下壕の中にざわめきが起こっている。

凪はドアを少し開けると、周りに誰もいないのを確認して通路を走り抜けた。無我夢中でこの地下壕から出ることだけを目指した。

「おい、こら、お前どこに行く?」

見つかった凪だったが、一目散で駆け抜けた。地下壕の中は米艦ミズーリの話で混乱していたので、配置の少ないエリアをぬって駆け抜けていった。さいわい追っては来なかった。それだけ地下壕内が異常な状況にあったのだろう。そして、夕刻の混乱した地下壕からの脱出に成功した。町中には国民服のような服を着た人があふれていて、凪の服装は目立ってしまう。赤山から山伝いで宮城方面に向かって凪は走った。途中、民家の井戸の水を汲み一杯の水を飲みほした。物音に気付いて国民服の男が出てきた。

「お前はここで何をしているんだ?」

「あ、水を一杯いただきました。すいませんでした」

と言って、凪は走り出した。

「あ、待て! 止まれ!」

国民服の男は少しの間、追ってきたが途中で戻っていった。もし、捕まっていたら、凪にはこの時代での言い訳が思いつかなかった。ここはとりあえず、逃げるしかなかった。そのとき、ふと頭をよぎったのは石井のことだった。石井は無事でいるだろうか、それに他の見学の人たちはどうなったんだろうか。いまの凪は自分のことしか考えられない状況にある。夕刻の町はその服装も、顔も、闇のせまる中で逃げる凪に味方をしてくれた。

m闇に紛れて凪は赤山から離れて山影へ走った。そしてたどり着いた宮城の山にある戦闘機用の掩体壕〈えんたいごう〉の中に隠れて一夜を過ごすことにした。そういえば、赤山地下壕の中で聞いた「零戦を掩体壕に移す」という言葉は、ここにも軍人がやってくるということなのだろう。日の出前にはここを出た方がいいだろうと考えていた。
掩体壕とは戦闘機の形態型に作られたコンクリートの建造物で、戦争末期に空襲から戦闘機を守るために作られた施設で、250kg爆弾に耐えられるように設計された戦闘機用格納壕である。赤山周辺だけでも学生や市民、兵士によって10カ所余りが作られた。屋根部分には草が植えられていて、格納された戦闘機が上空から見つかりにくい工夫がされている。凪が自動車の運転免許を取った館山自動車教習所への道路は道幅の広い長い直線道路になっているが、この道路は掩体壕から出した戦闘機が飛び立つための滑走路として作られた道路だった。


12話 Into a Dream 2

 謎の老人の正体

凪のいる掩体壕は、平成の時代となっても1カ所の掩体壕が残されているが、まさかその掩体壕の中が一夜を過ごす隠れ家になろうとは想像もできなかった凪であった。服に着いた汚れを手で払おうとして、それに気が付いた。ズボンのポケットに携帯が入っていたのだ。夕べ充電したはずだ。しかし、家族への通話もLINEもつながることはなかった。凪は戦時中の館山に自分が居るのではないかと、確信を持ち始めていた。

留学した時は同じ時空間の中に家族がいて、飛行機と電車や車を使って十数時間を費やせば家族とも会えたのだが、今度は時空を超えて自分が居る。どうあがいても元の時代には戻れないと思うと家族の懐かしい顔が思い浮かんでくる。いま凪は独りぼっちなのだ。誰も自分を知らないし、心を打ち明けることのできる仲間もいない。精神的に追い込まれた凪は、しばらく動けずにいた。不安で指先が震えている。

少し落ち着いた凪は、赤山地下壕で聞いた話を今一度思い返していた。「米艦ミズーリが東京湾を目指している」「米軍が館山に上陸してくる」「最後まで戦い抜く」、戦争なのか、この状況からすると、いま居るこの空間は日本が終戦を迎える頃に違いない。すると、凪のいた空間から70数年前ということになる。この年には、まだ両親は生まれていない。二十歳前の祖父が家にいるのかもしれない。夜が明けたら、とにかく家に行ってみようと思った。自分を証明できるものを何も持たない凪が思いつくことは少なかった。普通なら、こういうことはチャンスと捉えていろいろ経験するのがいいのだろうが、そんな余裕はないのだ。人生は考える人間にとっては喜劇だが、感じる人間にとっては悲劇であるという言葉が何かの本に書かれていたが、実際にこの時代に投げ込まれた突然性は、何も考えず何も感じないままで、本能のまま行動せざるを得ない状況をつくり出している。何より凪は、誰かと会話したい欲求から家を目指すことにした。
tr 掩体壕の中は、夏ということで蒸し暑かった。風通しが悪く、澱んだ空気と戦闘機の油のにおいが体に染みついてきた。そして、屋根からの夏草のにおいが、浅い眠りの凪を何度も起こした。朝早く目が冴えたので、さっそく家に向かった。凪の実家は城山の下の仲町にあった。家には二十歳前の祖父がいるかもしれないが、それ以外のことは想像もできなかった。歩くと、令和の時代とはだいぶ違う街並みだ。道路も舗装されていない砂利道だ。宮城から山の裏を抜けて城山まで走った。城山を超えて、大きな銀杏の木がある「おちかんさま」という広場まで来て息をついた。ここは平成の時代には上仲公園となっている。そこを左折して、凪は家の前までやってきた。


1436773183_44735木造の古い建物が建っている。表札に池田とあるので間違いはないのだろう。裏のガラス戸が開いて、面影がある若い祖父が出てきた。タオルを濡らして体を拭いている。いまの自分と年の変わらない祖父に、何を話しかければいいのだろう。でも、他人ではないんだと割り切って、思い切って話しかけてみた。

「おはようございます」

「おはよう。あれ?どなただっけ」

「凪といいます。親戚を訪ねてきましたが見つからなくて」

「それは大変だね。暑いから水を一杯飲んでいかないか」

「ありがとうございます。いただきます」

「よう、入れよ」

「おじゃまします」

凪は、この時代の祖父に導かれて祖父の家に入った。ちゃぶ台にコップで水を渡された。

img_8 (2)「ところで、池田さんは結婚されてないんですか?」

「ああ、まだしてないよ」

ということは、まだ祖母とは結婚していないということだ。

「こんな時代だからなあ」

「こんな時代?」

「去年、この戦争でおやじが亡くなってるんだ」

「そうだったんですか」

「怖い顔してたけど、やさしいおやじだったんだ」
凪は自分の曾祖父の顔を知らない。祖父の話を聞いて、そうだったんだと初めて知る肉親だった。祖父に導かれて仏壇にお線香をあげさせてもらうことにした。突然、凪の背中に刺激が突き抜けた。

「えええっ? 」

仏壇に飾られた写真をみて、凪は驚いた。あの老人だ。間違いなく羽田空港でバスの中で会った、あごひげのある、あの不思議な老人だった。あの老人は祖父の父親、つまり凪にとってはひい爺さん、曾祖父にあたる人である。祖父の話だと、この戦争で亡くなっているということだった。この写真の凪の曾祖父が、本当にあの時の老人ならば、あれは幽霊だったのだろうか。ここで長居をしたい凪だったが、自分の居場所はここにはなく、コップの水を飲み干した。そしてお礼を言って家を出た。

img_5 (1)凪の実家は大正期からの旅館だが、子供の頃凪が祖父から聞いた話では、零戦が屋根に墜落したということなので、戦争がいま身近にあると感じる瞬間だった。見たところ、まだ2階の瓦屋根は壊れていないようだった。凪の子供の頃は、瓦屋根ではなく、終戦後に直した屋根に代っていた。

13話 Into a Dream 3

 石井の若い祖父

 行くあてを失った凪は、幼いころからの遊び場だった城山に向かった。城山には上る道がふたてに分かれていて、左手から上るとすぐに門があり上方に幼稚園があった。凪の時代には孔雀園になっていたため、この時代の様子を眺めながら坂道を上って行った。すると、坂下の背後から声をかけられた。

「よう、もうすぐ米軍が館山に上陸してくるらしいぞ。こんなところでふらふらしてないで家に帰れ」

どこかで見たことのある顔だと思ったら、同級生の石井の祖父だ。石井の家で聞いたことのある声だったが、十代で若い石井の祖父だった。

「でも、帰る家がないんです」

「え、戦争で家を焼かれたのか?気の毒になあ。まあいい、俺と一緒に来い」

凪は行くあてもないので、石井の祖父と思われる若者と一緒に城山を上って行った。

幼稚園を右手に見て、さらに頂上を目指して上る坂道の曲がり角で二人の足が止まった。
1352184577_1647473「ここだよ」

石井の若い祖父は、そこから左に道を外れていくと、横道を2メートルほど上がり、地面の板を開けて穴の中へ入っていった。「おう、入れよ。遠慮はいらん」

凪もそれに続いて穴に入った。穴の側壁は城山の上る道に面していて、いくつかの小さな穴が開けられている。山に上って来る人を確認できる。この穴は、米軍が上陸してくるという噂を聞いた石井の祖父が隠れる場所として掘ったものだった。畳一畳分の広さがあり、横にもなれて比較的快適なスペースだった。米軍がいつ上陸してくるか分からないというので、この日は石井の祖父と行動を共にして、ここで一晩を過ごすことにした。石井の祖父はろうそくを灯し、水筒の水を凪に手渡した。

「飲めよ」

「ありがとうございます」

「お前、どこから来たんだ?」

「自分でもよく分からないんです」

「覚えてないのか?かわいそうに、辛い目にあったんだな」

石井の祖父は、凪のことを自分なりに理解してくれたようだ。

「じゃあ、帰る家も行く場所もないのか?」

「はい」

「記憶を失うほど、怖かったんだな。戦争とはそういうものだ」

「あ、はい」

石井の祖父は、たすき掛けにした布カバンからノートを取り出した。

「2月16日の空襲の時か? あれは朝早かったな、米海軍第58機動部隊の艦載機1000機は南房総へ侵入してこれまでにないような機銃掃射や空襲を行ったから、きっとお前の家も焼かれたんだろ? それで家族は?」

「覚えてないんです。すいません」

Mitsubishi_A6M3_Zeke_Model_22_1943「白浜の監視哨は敵機北進中と報告し、厚木、茂原、館山の基地から240機の零戦が出撃したらしいけど反撃は十分でなく、館山の軍事施設、列車、民間施設が攻撃目標となって被害は大きかったんだよ」

「石井さんはどこにいたんですか」

「おれは、ここにいたんだ」

「ここは石井さんが掘られたんですか?」

「うん、まあな」

石井の祖父は、ノートの記録を見ながら話し始めた。凪は、地震の前に赤山ガイドの話をメモに記録していた石井の様子を思い出し、似ているなあと思い、親近感がわいてきた。

「そうそう、519日の空襲も被害が大きかったんだ。那古の川崎地区で死者27人、負傷者10人、家屋の全壊9戸、半壊18戸という回覧があったよ」

「空襲では、所かまわず攻撃されたんですか?」

「いや、戦闘機はあらかじめ攻撃目標を定めて攻撃してくるんだよ」

「じゃあ、米軍はどこを狙ったんですか?」

「八幡の鉄工所を目標に来たらしいが、臨機目標として川崎町内に落としたらしい」

「臨機目標ってなんですか?」

「ああ、目標を狙ったが、機体の不調、飛行条件なんかで、目標を攻撃できない時に臨機に目標を変えることだよ」

「じゃあ、那古の川崎地区はとんだ災難だったんですね」

「まあな、戦争って言うのはいつ死ぬか分からない怖さがあるな」

「これが戦争なんですね・・・」

「おまえさあ、行くところもないんだったら、町なかの木村屋旅館で、しばらく働かないか?映画の撮影隊が来るので、たしか人手が足りないって妹が言ってたよ」

「本当ですか?紹介してもらえるんですか」

「ああ、俺の妹が木村屋旅館で働いているから、あした訪ねてみろよ」

「はい、助かります。ありがとうございます」

石井の祖父は凪の居場所についても心配してくれた。行くあてのない凪は、そうしようと思った。
「石井さんの家はどちらなんですか?」

「俺の父親は巡洋艦に乗っているんだよ。だから家はないんだ」

「家がないんですか?」

「何を驚いているんだい。海軍の軍人は船に乗れば、何か月も洋上で過ごすんだ。だから母親は父の実家か、自分の実家で父の帰りを待つんだよ。当たり前のことじゃないか」

「そうなんですか・・・」

「母親は、父の寄港地に駆けつけての結婚生活をしていたんだ。呉だったり、横須賀だったり、館山だったりして、幼い俺と妹はその都度、父親の所へ一緒に連れて行かれたんだが、父親が体調を崩して、しばらく入院して、館山が長かったので俺も妹も館山に住んでいるんだよ」

「へえ、そうなんですか。てっきり館山出身だと思ってました」

「体をなおして、父親は復帰して駆逐艦に乗って赤道を何度も超える任務に就いたんだが、戦争が激化して、フィリピンの西海沖で戦死したらしい」

「最近の話ですか?」

「ああ、それで母も実家に戻っているよ。俺も妹も働いているけど、いつかは母を呼んで館山で一緒に住みたいと思っているんだ」

「妹さんはどこか体がお悪いんですか?」

「いや、何でそんなことを言うんだい。健康そのものだよ。俺が言うのもおかしいが、美形の頭のいい娘だ」 

「あ、ごめんなさい。なんかどこかで聞いたことのある話だったんで・・。人違いでした。すいません」

「戦争がなければ、ここいらは半島性の下で、海や山など豊かな自然環境に恵まれたきれいなところなんだよな」

「はい、僕もそう思います」

城山の人知れぬ小さな穴の中で、石井の祖父と語り明かした夜は、凪の孤独感を少し解消してくれたようだ。

 


14話 Into a Dream 4

 夢の人に会える瞬間

翌朝、凪は石井の祖父に礼を言って、館山の町なかにある木村屋旅館に石井の妹を訪ねた。同級生の石井から見れば、祖父の妹ということになるのだろう。

1q木村屋旅館は館山の町中にあった。凪の時代には、館山信用金庫が建っている場所だ。ここは海から見ると、一段小高い場所にあって、海岸沿いから海にかけて一望できる。令和の時代にはない防風の松林が海の方に見えている。

旅館の裏手の通用口にやって来た凪は、掃き掃除をしていた女性を見て驚いた。しばらく言葉を失って立ちつくすことしかできなかった。
 凪の目の前に現れた女性は、英国で凪の夢に何度も現れた、藤子さんのお店で石井が落とした写真に写っていたあの女性に間違いはなかった。名前は純子といい、十七歳でこの旅館で働いていた。あの時石井は、若くして病気で亡くなったと言っていたが、目の前の純子は健康そうな美少女だった。凪は心の中で「やっと会えたね」とささやいていた。凪は純子に、純子の兄から紹介を受けてきたことを告げた。彼女の口添えで女将の許しを得て、旅館の手伝いということで庭の小屋に居場所を確保することができた。

「石井さん、ありがとう。お世話になります」

「はい」

頬をピンク色に染めて恥ずかしそうに答えた純子を、凪は可愛いと思った。夢に出てきた女性を目の当たりにして、心の中では「やっと会えたね」と言いたかったのだ。純子に見つめられた凪は、体に電気が走ったような感覚を感じていた。
 そのときだった。けたたましく空襲警報が鳴った。米軍のB29が館山上空にやって来たのだ。木村屋旅館の客も従業員も一斉に防空壕の中に入ったが、狭い防空壕でぎゅうぎゅう詰めになった。凪は純子に手を引かれて、入り口近くにいた。爆音が上空にやって来た。みんな早く行ってしまえとじっと通り過ぎるのを待った。ここ館山は航空隊基地もあったので、安全だと言われてきたが、終戦近くには日本には安全なところはどこにもなかった。東京も大空襲にあっていた。隣で震えている純子に、凪は「大丈夫です」と小さな声で呟いた。純子は震えながらも、凪を振り向いて小さく微笑んだ。やがて、外が静かになってきたので、防空壕にいた人たちは旅館の中に戻って行った。凪と純子は防空壕の後片付けをしていた。

「不思議だな、あなたとは初めて会った気がしないの」

「詳しくは言えないけど、ぼくはあなたに会いたかったんです。夢のようです」

「えっ?どういうこと・・ですか?」

「やっと会えたね」

「普通なら、そんなことを言われたら突き飛ばしちゃうんだけど・・・」

「ぼくは以前、あなたの写真を見たことがあるんです」

「えっ、本当?」

「もしかしたら、ぼくはあなたに会うために、ここに来たのかもしれません」

凪と純子は不思議な糸に導かれて巡り合えた。

「そこで何を遊んでいるんだ。お客様の夕飯の時間だよ」

「あ、すいません。すぐ行きます」

純子は調理場へ急いだ。

注意してきたのは、番頭の鈴木だった。働き盛りの成人は戦争でとられていたので、鈴木は十九歳だが、親の後を継いで番頭職についていた。戦争が長引けば、鈴木のもとにも赤紙が届いていたことだろう。純子に気があるせいか、新入りの凪には最初から辛く当たってきた。

「どこから来たか知らないが、二人分働いてもらうからな」

「はい。よろしくお願いします」

「裏庭へ行って、さっさと薪割りをしろよ」

「あ、はい」

凪は走って裏庭へ向かった。そこには大きな木株の台座と薪割り斧が置いてあった。テレビドラマで何度か見た薪を割る光景を思い出して、薪割りを始めた。薪は風呂を沸かすために必要なものだった。1時間くらい割っていただろうか、汗にまみれていた凪は上半身裸になってタオルで体を拭いていた。そこへ調理場の仕事を終えた純子がやって来た。

「きゃっ、何か着てください」

「あ、ごめん」

ランニングシャツは汗でびっしょりと濡れていたので、ボタンダウンのシャツだけ腕を通してボタンを留めた。

「あ、これ、おにぎりです。今夜の夕食です」

「ありがとう」

「名前はなんていうんですか?」

「池田 凪と言います」

「なぎ?さん、わたしは・・」

「あ、石井純子さんですよね」

「え?何で知ってるの?」

「いつか話します。純子さんて呼んでもいいですか」

「職場では、石井と呼んでください」

「そうですよね、ごめんなさい」

「またさぼってんのか?石井さん、用が済んだら客室の布団を頼むよ」

「はい、すぐ行きます」

「おい新入り、泥棒や変な奴もいるから、夜通し旅館の見回りだからな」

「へ、いつまでですか?」

「みんなが起き出してくるまでだよ」

「はい、わかりました」

「どこのものかも分からないお前を雇った女将さんの気持ちが分からん」
 鈴木はそう言うと、建物の中へと戻って行った。凪は純子が持ってきたおにぎりを口にした。塩むすびだった。なぜか涙があふれてきた。この空間には凪のことを理解してくれる家族も知り合いもいない。ハムステッドに留学した時は涙なんか流さなかったのに、何故か泣けてくる。声を押し殺して泣きながら、塩むすびを食べた。そしてこんなにも孤独感を感じたのも初めてだった。泣いて目を真っ赤にした凪は、この夜、夜通し旅館の見回りをして孤独な夜を明かした。辺りが午前4時ころに明るくなってきた。旅館の中から人が動き出す気配がした。それを確認してから庭の小屋に入って凪は仮眠に入った。いまは夢の人・純子と同じ空間に居られることを感謝して、今できることに集中しようと思う凪だった。


午前8時に純子が凪の仮眠をとる小屋までやってきた。

「凪さん、起きてください。おにぎりを持ってきましたよ」

「ああ純子さん、おはよう」

「いま、女将さんから聞いたんだけど、アメリカの軍艦が東京湾に入って来るらしいんです。そのあと、館山に米軍が上陸して来るって噂です。占領されるとみんな殺されちゃうんですか」

「純子さん、大丈夫。戦争はもうすぐ終わります」

凪は日本近代史の教科書を思い出していた。実際にその歴史上の出来事をいま凪は経験している。そう、令和の時代を生きる現代の人々も歴史の流れの中にいるのだ。壮大な時代の流れの中で、日本という国で生きている歴史上の人物なのだ。今起こっていることは、教科書で学ぶのではなくて、実際にいま体験している出来事なのだ。やがていま経験しているできごとが歴史の教科書に載ることになるので、日々の出来事は、真実の目を持って心に刻んでおきたい。歴史を書き換えたりする輩がいるので、しっかりと自分の目で見て記録しておかなければならない。凪は石井家の祖父と孫に見られた「記録」という習慣に学ぶところがあった。

「純子さん、米軍が上陸してきてどうなるかは僕には分からないけど、僕は君を守りたい。そのためにここに来たんだ」

「えっ?」

「ぼくはあなたが好きです。何があってもあなたを守ります」

「えっ、どうして・・・」

この時代としてはストレートな告白に、純子は戸惑っていた。



15話 Into a Dream 5

本土上陸に備えて兵力を温存すると言うのが中央部の方針だったので、館山のの山裾に造られた掩体壕にゼロ戦を隠していたのだ。同じく厚木に於いても「銀河」は石川県小松に、「月光」「彗星」は群馬県前橋に、この目的で一機ずつ飛び立っていった。雷電一機とゼロ戦4機が厚木の地下格納庫にあった。その時である。「八丈島南方200キロ、小型機大編隊北上中」と言う情報が入ってきた。まもなく、大島見張所から、P-51の大編隊が通過の知らせ、数百機の小型敵機が相模湾を上がってきた。戦闘機を隠した厚木基地は空襲のあいだ、じっと我慢をする重い空気の中にあった。敵機が去った厚木の指揮所に戻った隊員に、「地上からの攻撃で敵機一機を江の島沖に撃墜、搭乗員は落下傘で降下せり、海の中で発煙筒を焚いている」という情報がもたらされた。隊員たちはこの敵機搭乗員はお陀仏かと少し同情を感じていると、「大島方面よりB-24が2機接近中、敵潜水艦が浮上」という敵情がたて続けにもたらされた。厚木の戦闘機隊に敵機撃墜せよと発信命令が出され、地下格納の4機が、やられっぱなしのP-51に一矢報いようと勢いよく飛び立っていった。B-24は江の島沖で海面で発煙筒を焚く搭乗員に向かってゴムボートを落とし、浮上した潜水艦は搭乗員の回収、4機のP-51はその護衛で飛んでいたのだった。米軍のチーム行動には驚かされる話だった。

館山でも、突然空襲警報が鳴った。サイレンのけたたましさが、やがて上空を米軍機がやってくることを知らせてくれている。「ズシーン!」とB29の落とす爆弾の音が遠くで響いた。町にやってきた米軍の艦載機が機銃掃射を浴びせてくる。バリバリと音がして火薬のにおいが鼻を突いてくる。凪と純子は旅館の2階の窓から、日本の零戦が空中戦に挑み、炎とともに民家の屋根に落ちていくのを目撃した。凪は、それが凪の祖父のいる旅館の屋根に落ちたんだと事象を結び付けていた。凪の泊まった掩体壕に隠されていた零戦が、滑走路代わりに笠名の直線道路を使って飛び立ったものなのだろう。笠名の自動車学校への道は、直線で広く長い、掩体壕のゼロ戦はこの道路を利用して飛び立っていったのだろう。

「零戦が城山の下の民家に落ちたらしいぞ」

「ここも危ないから、みんな防空壕へ急げ」

旅館の客は急いで庭の防空壕へ向かった。凪と純子は防空壕へは行かず、再び2階の窓から空中戦を隠れて見ていた。零戦が落ちた辺りには、ここに来る前に訪ねた祖父の家、のちの凪の実家となる旅館があった。凪は祖父から零戦が屋根に落ちた話を聞いたことを思い出していた。この日は町にはサイレンが鳴り続けていた。館山は航空隊基地があるから大丈夫だと言われ続けていたが、このとき首都の玄関ともいうべき館山は戦場の中にあった。房総半島沖にいる米軍艦より、艦載機が約二百機、本土を目指しているとラジオからは聞こえてきた。

館山にはエリートの集まる館山海軍砲術学校や洲埼海軍航空隊があり、ここ木村屋旅館も軍関係の宿泊者が多かった。8月の初めから映画の撮影隊が宿泊していた。
Mitsubishi_A6M3_Zeke_Model_22_1943「アメリカようそろ」という映画で、航空隊基地付近に住む陸軍軍人の未亡人とその娘の物語だった。未亡人が亡き夫の追善供養として、家を航空隊員の宿として開放したなかで、娘が一人の隊員に好意を寄せる。しかし青年は神風特攻隊の隊員だったという内容だった。ロケ中に空襲が来ると、海岸に掘られたタコツボのようなたくさんの穴に飛び込むが、これは簡易的な一人用の防空壕で、とてもその役目を果たせるものではなかった。館山への空襲が多くなってきていたので、撮影隊にはそれを伝えたが、館山は安全だということでやってきていたらしい。しかし、この時すでに米軍のミズーリ号が東京湾を目指していて、館山への米軍の上陸が噂されていた。防空壕から旅館の建物に戻ると、再びサイレンが鳴り、ラジオのブザーが鳴る。「東京軍管区情報、敵機約二百機、房総半島沖より本土に接近しつつあり。警戒警報発令」という放送が流れてくると、また防空壕へ走る毎日が続いた。
 8月8日の朝刊に広島にアメリカの新型爆弾〈原爆〉が投下されたという記事が載った。一瞬にして20万人以上の生命が消えた。続いて9日、長崎にも新型爆弾〈原爆〉が投下された。
8月9日にはソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日戦に加わり、ポツダム宣言にも名をつらねる事態になると、もはや日本には、本土に敵大兵力を迎えての本土決戦か、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、いずれかの道しか残されていなかった。
 日本政府は8月9日の御所会議で、「国体の護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定して、10日には、中立国スイス、スウェーデン経由で連合国に伝えられた。8月14日、日本政府は改めて御所会議を開き、ここで天皇自らの意志でポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔書が発せられた。そして、8月15日正午、天皇が国民にラジオを通じて終戦を告げられた。玉音放送である。

ab2b4880ef4cc8c7b91466db6193fdd08月15日、木村屋旅館に宿泊していた女優の高峰秀子さんらは、東京から来た踊り子と楽団の応援を得て、館山航空隊と洲崎航空隊の隊員たちの慰問に向かった。ここ十日ほど、館山はものすごい敵機来襲を受けていた。14日の晩に太平洋を北上してきた米軍機動部隊が接近しているので、よう撃態勢をとるようにと情報が流れていた。
午前4時半に房総半島沖の米軍、英軍の両空母を発艦した第一波の103機が来襲した。茂原基地からは304飛行隊15機が発進して対戦した。戦死者は全員予科練出身の20歳前後の若者たちだった。この空戦から1時間後には、敵機の第2波73機が来襲。これには厚木基地を発進した302空の零戦8機と雷電4機が藤沢上空で激突した。さらに午前10時半には茨城県百里原基地から敵機機動部隊に向けて、特攻隊第4御楯隊の彗星〈艦上爆撃機8機〉が出撃して,18歳から25歳の搭乗員16人が戦死してしまった。

この日の昼、天皇陛下の玉音放送があり、撮影隊はこれを聞いていた。高峰秀子さんたちは、「洲の空」と呼ばれた洲崎航空隊の広い飛行場に据えられた一個のラジオを前にして、航空隊員が整列し、慰問団はその後ろに並んだ。雑音で聞き取れない天皇陛下の声を聞いて、ひとり、また一人と倒れていった。天皇陛下の声を聞いて倒れたのではなく、照り付ける太陽によって気分を悪くして倒れていった。みんな十六,十七歳の若者だった。炎天下の猛訓練で心身ともに限界に達していた彼らは立っていることもできなかった。放送が終わったときに、雑音のためにその内容を理解した者はいなかった。すると、ひとりの将校が兵舎から出てきて叫んでいた。

「敗けたんだ、敗けたんだ、日本の無条件降伏だ」

宿に戻った慰問隊は玄関に座り込んでしまっていた。明日からどうなるのか、誰も答えることはできなかった。純子も番頭も、倒れ掛かる慰問隊を起こして部屋へ上げることしかできなかった。一方、旅館でラジオを聞いていた俳優たちがB班監督の渡辺氏に万歳を要求した。彼らは終戦を玉砕と感じ取ったようだ。一同が叫んだ万歳は不気味なほど静かな空間を破って悲壮に響き渡った。渡辺監督が庭に出ると、待っていたかように海軍士官が部屋にやって来た。

「万歳を叫んだのは東宝撮影隊か?」

これは不謹慎極まる行為だと言いに来たのだったが、スタッフのただならぬ悲痛な様子を見て、黙って去って行った。午前中まで、あれほど見られた敵機がまったくいなくなってしまった。戦争は終わったのだ。敗戦から来るであろう日本の悲劇を想像したり、今日まで張りつめていた気持ちが崩れで、何か混乱しているような撮影隊スタッフがいた。カメラマンは「敗けた」とつぶやき、畳に伏して号泣していた。

その日の夕暮れ時、館山の町は騒然としていた。日本の将校や兵員たちが酒気を帯びてやってきて、日本刀で庭の木々を切り倒していた。彼らのやり場のない気持ちはどこに向かうのだろうか。宿の屋根の上スレスレを爆音とともに飛ぶ零戦が最後の抵抗に向かうのを高峰さんは見つめていた。戦争は終わっているのに、彼らは少ない燃料で、爆弾を積んで暗い海を目指していく。ゼロ戦からはビラが撒かれた。そこには、「徹底抗戦、われわれは死ぬまで闘ふ」と書かれていた。東映撮影隊の山本嘉次郎総監督は一同に言った。

「もうこれからは、絶対に文化平和事業として映画製作に進むのが僕らの道だ」

敗戦から一歩踏み出そうと、もう明日に向かっていた言葉だった。このとき、那古で終戦をむかえた兵士がのちにバンドマンとなり、同じ館山で終戦をむかえた高峰さんと同じステージに立ったという話があるが、これも不思議な縁である。


16話 Into a Dream 6

 米国占領軍館山上陸

 翌日、ロケ隊は東京へ帰って行った。男の人は国民服にゲートル姿、女性はモンペの上下に防空頭巾を持っていた。監督は、もう防空頭巾はいらないだろうと置いて行った。旅館の従業員、凪と純子はそれを見送ったが、東京が混乱していることは想像ができ、無事に東京まで帰れるようにと願っていた。しかし、東京ばかりが混乱しているのではなかった。

 米軍は館山へ上陸して来る。占領軍によって、敗戦した日本はどんなことをされるのかと、様々なうわさが街を駆け抜けた。千葉県の安房地域は帝都防衛の掛け声のもと、本土決戦の態勢が敷かれて、さまざまな特攻基地や米軍上陸を想定して7万人近い部隊が配置されていて、住民も一億総玉砕、盾となるべく動員されていた。館山市内の学校の講堂などには、米軍上陸に備えて陸軍が駐在していて使える教室は限られていた。教師たちは近くの畑で芋やカボチャを作る日々だったが、この日、学校に駐屯していた部隊長が「戦争に負けました。次の命令が下るまで乱すことなく待つように」と隊員に話す声が講堂から聞こえてきた。これからどうなるかなんて誰にも分らず、不安な日々だった。子供たちが極秘に採集させられた軍事品であるウミホタルが虚しかった。ウミホタルは特攻の照明弾として利用しようと考えられていた。
 8月30日の正午、銚子沖に待機していた米艦が東京湾に入り、米軍上陸の日となった。周囲の家は戸を閉めて息をひそめていた。女性や子供を非難させた家もあった。町全体が静まりかえった。館山終戦連絡委員会の職員が、不測の事態に備えて待機して港の方を見ていた。
104やがて、東京湾上の艦艇から上陸用舟艇数隻が鷹の島に接岸して、米軍の先遣部隊が十数人上陸して来た。今の造船所のある浜だ。凪は自分の目で確認しようと、リスクを承知で赤レンガ倉庫の影から様子をうかがっていた。上半身裸で短パンの兵士もいたが、腰には拳銃が見えた。日本ではこんな格好は考えられない。凪の傍にいた町の職員は、「すごい国だな、野蛮な国なのかもしれないな」と凪に話しかけてきた。凪は子供の頃からの疑問をぶつけてみた。

「すいません、この赤レンガの大きな倉庫は何の施設なんですか?」

「ああ、これは第2海軍航空廠の館山補給工場だよ。最近は零戦の修理にも使っているよ。飛行機本体ごと建物に入れられるからね」

「ああ、そうなんですね。ありがとうございます」
港赤レンガ倉庫凪が子供の頃から持っていた疑問が、やっと解決した瞬間がこの時だった。
やがて米軍の兵士たちは、車に乗り込み日本軍の兵士たちとともに館山海軍航空隊基地へ向かった。この日、百人規模の米軍先遣隊が館山入りをし、本隊上陸についての事前協議が行われたとされている。

この時館山には、零戦15機、紫電1機、99式艦爆2機、97式艦攻5機、天山1機、零式水偵4機、94式水偵2機など41機があったという。この飛行機を空襲から守るために掩体壕が40カ所以上設置されていた。凪が一夜を過ごした宮城地区には13基の掩体壕があった。


1001945
年〈昭和20年〉9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号において降伏文書調印式が行われて日本の敗戦が決まった。日本の無条件降伏だ。翌3日の午前9時20分、カニンガム准将率いる米陸軍第8軍第11軍団の三千五百名が上陸用舟艇を使って館山の鷹の島の水上機スリップから上陸してきた。凪の時代には造船所となっている浜だ。映画のワンシーンのように、ライフルを構えた米軍が次々に上陸してくる。市民はみんな殺されてしまうのだろうか。館山の占領軍は首都東京を制圧するために、東京湾の対岸横浜から上陸した部隊とともに挟み撃ち作戦を実施したのだった。上陸直後、軍人や市民の妨害を警戒した占領軍は館山において、4日間ではあるが日本本土で唯一の「直接軍政」を敷いたようだ。凪は、自分の生まれ育った館山に、米軍が上陸してきたのを目撃してしまったのだ。この隊は前の先遣隊と異なり、整然と隊列を組んでいた。そして、町中に道路に沿って鉄条網を敷き、機関銃の設置によって鉄条網の中は米軍の「占領地」となった。この町はどうなってしまうのだろう。70年後には、あの空間があると分かっていても、この状況下では凪も覚悟を決めなければならないと身構えていた。
101米軍は、市内の学校、劇場や酒場の閉鎖、市民の夜間外出禁止などを命令した。これは政府を通じて米側に中止を求め、これらは解除された。米側は当初、日本を軍政統治する計画だった。2日の降伏調印直後、連合国軍総司令部(GHQ)は立法、行政、司法三権の制限や、円を廃止し軍票の配布などを通告。翌3日に発表予定だったが、東久邇宮稔彦王内閣の重光葵外相らが強硬に反対し、施行されなかった。敗戦に際し日本はさまざまな要求に対して、市民を守っていたのだろう。

町に張られた鉄条網は4日ほどで撤去されたが、市民はいつ銃口を向けられるかとふるえていた。戦争に負けたという現実が、この国の行く末を見えなくしてしまっている。人々は不安の中にいる。石井の祖父は城山のあの穴の中でふるえているのかもしれない。


103鉄条網の撤去後も衛兵の詰め所は残されていた。衛兵と毎朝顔を合わせるようになった市民は米兵らと次第に親しくなっていった。若い兵士を学校に招いたり、日本の文化を学びたいという将校を自宅に招きもてなす事例も出てきた。しかし、米軍の占領下であることは紛れもないこと、いつ話がもつれて市民に銃口が向けられるか分からない状況は変わらなかった。

この国の未来を生きていた凪は、この瞬間を目の当たりにして生きた心地がしなかった。もし、ここで自分が死んだなら、将来の自分は存在しないことになるのだろう。この街は米軍が上陸して来たことで、占領下に置かれた恐怖の中にいる。戦時下ではあったが、凪にしてみれば、憧れの純子と共にいる夢のような日々だった。あしたも純子と会えるということが、いまの凪の生きがいとなっていた。

凪はもう、もとの時代には戻れないのだろうか。なんで凪はこの時代に投げ出されてしまったのだろう。飛行機による移動がタイムスリップの要因だという話があるが、英国への留学が、何か影響を与えているのだろうか。



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