潮騒が聞こえる〈BEACHBOYS1997〉

たそがれ時を過ごす場所。Costa del Biento / Sionecafe    2022年、館山の夕日劇場を見においで

館山市の歴史

駅前回顧録10<最終回>

駅5
館山駅に蒸気機関車が入線してきます。


震災後、今の駅舎
<平成11年までの木造駅舎>
ができたんですが。。。



島田
:大正13年の4月頃だったと思いますけど、新しい駅ができるまで、
いまのバス乗り場がある所に仮庁舎があって、そこでやってた。
私が入った頃は「マッチ箱」って呼んでた客車だった。ひとつの客車が
6つ位の部屋に分かれてまして、それぞれドアがついていた。
カギは外側から掛けたので、駅員は列車が着くとカギを一つずつ開ける。
発車する時はカギを一つずつ掛ける。これが大変だったですね。
ひとつの客車に36人位乗れたかな、それが3両編成位。
電気はなくガス灯がついてましたね。すぐボギー車っていう客車に変わりましたけど。

小原:連環連結機っていってね。連結するのに列車と列車の間に入って手でかけるんです。

島田:太った人だったら、連結の仕事できなかったでしょうね。事故も多かったですよ。
うっかりすると列車と列車の間に挟まれちゃう。

ーーこの旧式の連環連結機が現在のゲンコツ型をした自動連結機に変わったのは
大正14年7月1日。全国一斉に全列車の連結機を、たった一日にして交換した。
わが国の鉄道史上では記念すべき日であった。館山駅構内でも連結作業事故死がある。
島田:私も命拾いしたことがあった。連結作業終わっていないのに見込みで貨車を
動かしちゃった。枕木の上に伏せて助かった。今のようにブレーキがあんなに下まで
出てなかったから、、車両の下と地面までの隙間があった。いまなら服か何かひっかけて
巻き込まれちゃってますよ。

島田:いまは駅長も駅員も同じ服を着て、友達と話すように話をするけど、私らの頃は
駅長とは口なんてききませんでした。用があったとしても、まず助役にいってそれからだから。
小原:あまり口きかなかったね。軍隊式だったからね。駅員同士でも口きかなかったしね。

大正13年10月31日 館山駅頭にて天長節祝日撮影<このメンバーのほかに実務中の22人>
CIMG1591


駅前回顧録9

CIMG1592小原さんは明治36年生まれ、
大正10年館山駅の駅手として
国鉄に入った。

連結手、天轍手、操車掛など
駅構内の仕事をしてきた。

昭和32年、
からだを悪くして退職するまで、
勤務は館山駅。




CIMG1593一方の島田さんは明治40年生まれ、
入省したのは小原さんより
2年遅く大正12年12月、
構内係で昭和38年定年退職まで
勤務は館山駅。








駅0小原:大正12年の関東大震災で館山駅は倒壊した。震災前の駅舎は瓦屋根の平屋で入って右側が待合室、左側が切符売り場と手荷物小荷物を扱う所があった。






入った当時は駅夫って言いましたが、その後駅手って名前が変わった。「夫」っていうのがいけないっていうので、「手」にしたんだろうね。私が入った時は鉄道院だったですね。

島田:私が入った頃は「駅手」だったなあ。そして鉄道省だった。

小原:荷扱夫が半纏着てたの覚えてる。貨物列車の荷を扱う。
だいたい丸通がやるんだけど、荷扱夫、線路工夫も半纏着てたなあ。

島田:背中に機関車の動輪が書いてあった。

小原:震災で駅が潰れるのは見なかった。アケで駅の西に官舎があって
寝ていた。地震が起きても体がゴロゴロして起きて戸なんか開けられない。
静まって戸を開けて見たら潰れちゃってた。官舎は潰れなかったけど、
壁は落ちちゃった。海岸へ行くところの線路見たら地が割れちゃって、
枕木と線路がハシゴみたいになってた。
ナルセの筋向いに久太楼っていう旅館があって、そっから火事が出たけど、
駅前は火事は出なかった。大珍宝ではいつでも七輪がカンカンしてたけど
地震だって言ったら、揺れが大きかったから、七輪真っ逆さまになって
火が消えちゃった。それで火事は出なかった。


駅前回顧録8

CIMG1585憲兵隊の馬小屋が裏にあってね。。。と話すのは
安房屋の佐久間徳松さんの息子、正雄さん。大正9年生まれ。
大珍宝の吉田さんとは駅前の幼なじみ。

憲兵隊の馬小屋がうちの裏にあった。
小さい頃、憲兵に馬に乗せてもらったのを覚えてる。
そこから桟橋の近くの大和印刷の所へ移って、
それから館山神社の所の田村病院の方へ移ったと思ったけど。
憲兵隊が駐屯したのは震災直後、警察の応援に来てからだ。



CIMG1580 - コピー (2)うちの裏に井戸がある。この井戸がよく出る井戸でね、
福岡さんが汲みにくる。大珍宝さんが汲みにくる、
みんな水を汲みにきた。向こうは田を埋めたから、
井戸はあるけど飲み水になんない。大珍宝のおじいさんなんか
毎朝、一荷って水を入れる桶をかついで汲みにきてた。
夏ですか、夏になるとこの辺の通りはいっぱいになっちゃった。
今の人に説明したってわかりゃあしませんよ。
戦前、私ら子供の頃、北条の桟橋の所に喜楽っていう民宿があるでしょ。あそこまで人で埋まっちゃった。泳いでんだか、芋洗ってんだか分かんないくらい。
今より砂浜が広かったから、中村公園のとこまで砂浜だった。

駅前回顧録7

CIMG1587昭和12年に日東交通の前身、
安房合同自動車に入ったという、
日東交通館山営業所の所長、谷貝周三さんです。

サカモトの前の自転車置き場に
安房合同の車庫があった。
今の日東交通の社屋は戦後登場する
闇市を取り壊して建てたもの。





CIMG1580 - コピー (2)昭和2年に房州自動車と安房自動車というのが
合併して安房合同自動車になった。
私が入った頃のバスは1929年型ぐらいのやつが多かった。
国産車はありません。フォードとかシボレーとかの外車でね。
宮城から富浦まで走ってました。

夏は忙しかったですね。駅にも赤帽さんはいましたけど、
ポーター頼んでね、客引きみたいなことやった。
海水浴客はチッキで荷物を送ってきますから、
それをタクシーに積んだりした。



駅前ロータリー4駅前で起きたことねえ。。。
昭和14か15年頃でしたか、
駅前の旅館でダイナマイト心中があった。家はもちろん壊れましたよ。ダイナマイトが爆発したから、肉片が飛び散っちゃって凄かったですよ。あんまり良い思い出じゃあないですけどね。
終戦後はバスがないものだからトラックを改造して、何とか路線を維持してた。


駅前回顧録6

CIMG1590戦後の駅前マーケットについて、
下妻書店の店主が語っています。

終戦直後の館山駅前には、
「闇市」みたいなものがあった。
昭和21年の3,4月頃、駅前の
自転車置き場の所にできた戦災者マーケットは
1年もすると消えてしまったが
、前後して今度は今の自動車区のある所にでき、
それも取り壊しになると、日東バスの所に移った。
しもづま書店の下妻厚吉さんも、
そのマーケットに店を出していた一人。

マーケットは露天商、テキヤが取り仕切っていて、店を出すためには
テキヤの親分さんに挨拶に行かねばならなかった。

私がマーケットに店を出すときは、W氏って人に挨拶に行った。
マーケットでは、テキヤの隠語で「コチャモ」って呼んでたオモチャ売ってた。
「タカマチ」っていうんだけど祭りがあると出かけてっては売ってた。
マーケットだけで商売してる人もいましたけどね。かなりの店があったね。
いまから思えば香港のスラム街みたいなもんだけど、館山病院のところの
豚舎亭もいた、黒恵屋の人はスルメイカか何か売ってた、海岸に舞鶴って飲み屋
あんでしょう、あそこの親父もいた。確か俺のマーケットの隣だったなあ。
30軒か40軒くらいあったと思ったけど。

日東バスの所に第2のマーケット街をつくった。新しくできたと言っても、
今から見れば豚小屋みたいなもんじゃあない。だけど、そこに住んでた人もいた。
自分で手をかけて。。。戦後、街の商店が遍塞してたわけよね。新興マーケットの
連中はバイタリティーがあるから、闇なんか持ってきて売ってたから繁盛してたわけよ。
いろんな闇物資かき集めてきちゃあ売ってたから。けど、街の方の商店の方が底力が
あるからだんだん復興してきた。それに比例してこっちのほうがひっそりしてきて、
昭和24,25年頃かな、自然消滅しちゃった。繫盛というほどのこともなかったけど、
何とかみんな生活できた。

CIMG1579

駅前回顧録5

CIMG1586駅前と言えば中村屋を思い浮かべる人も多い。今の場所に移ったのは昭和8年。それまでは高梨肉屋<現在、補聴器屋のある建物>の所でパンを焼いていた。
中村屋のご主人、長束正実さんの談話。

私の親父が昭和2年、高梨肉屋さんがある所にパン屋を開店したので、写真に撮ろうと思って駅前付近からカメラをかまえて写したんだそうですよ。ところが、そのすぐ前に交番と憲兵の派出所というのがあって、早速その憲兵に写真を写しているところを取り押さえられてしまった。当時から要塞地帯だったんで、あまりおもてで写真を写してはいけないということになっていたのに、こっちは東京から来たばっかりで知らないで写真を写していたら、憲兵隊に怒られてフィルムを持っていかれた。
長須賀の知り合いが憲兵司令を退職して館山で暮らしていたそうです。
その人に憲兵隊からフィルムを取り下げて戴いた。写っている写真が1枚あるんですよ。


※当時の写真撮影が厳しかったのはどこかの国のようですね。
そういえば戦時中、列車が大房にさしかかると車窓のカーテンを閉めさせられたという話を聞いたことがあります。大房の砲台や施設の位置が分からないようになのかもしれませんね。

駅前回顧録4

昭和40年代の「タムタム館山」というタウン誌の記事を紹介しています。
今回はインタビュー記事の4回目になります。
松田屋さんの隣にあった明石酒屋のおばあさんは震災の翌年の大正13年に
こちらに嫁いでこられたそうだ。その息子さん明石順さんは昭和9年生まれ。
CIMG1588
おばあさんの話から聞く。
別荘なんかがありまして、その頃避暑っていったらお金持ちしか来ない避暑でしたからね。お金持ちがみんな八幡の海岸に別荘持ってて、冬は閉めちゃってるんですけど、夏はそこへ来て長逗留する。子供さんがあれば夏休みこっちへ来て、夏休みが終わると帰る。夏のこの辺の商店ね・・うちは早い方だけど、それでも10時頃までやってた。今みたいに6時か7時頃で暗くなっちゃうなんてことはなかった。どんな商売でもずうっとあけてて、遅い所は12時頃まで人通りが結構ありましたから。



CIMG1589出兵兵士の見送り、強制的にやらされたんでしょうか、その度に旗持ってきたんじゃないのかなあ。戦争が始まった昭和16年の時、少学2年でしたから。国防婦人会なんてタスキかけてね。この前の通りを通っていった・・・。
「当駅発9時8分の列車、きまってこの時間だった」って北条小百年史に書いてあるよ、出兵兵士の出発する時間。
そうだねえ、それが遺骨になって帰ってくると、やっぱりそれを迎えに来て遺族の家まで並ぶのね。最初のうちは何だか随分丁寧にやってたけど最後の方になったら、数が増えちゃって粗末になっちゃった。



CIMG1580 - コピー (2)早川雪州っていう千倉の人がアメリカから帰ってきた、その時のパレードがありました。駅前ロータリーができてたのかな、高橋祐二さんと握手するニュース映画があって、映画館でそこだけグルグル回して同じやつを何回も見せられた覚えがありますね。郷土の生んだスターだというので何回も握手する。私が中学校の2,3年とすると、昭和22,23年頃ですか。
夏になると駅前でよく映画会をやって、あれは避暑客の慰安という感じだね。そこでもって溝口健二の「祇園の姉妹」っていう映画をみた記憶がある。駅前の今の自動車区のほうですね。あそこに保線区の建物があったね。それは今のブックパーク松田屋さんの黄色いビルの建ってるちょっと脇ぐらい、その前のスクリーンで蚊に食われながら見た。

※ そういえば、昭和30年代生まれの僕にも想い出がある。あの黄色いビルは松田屋さんの本屋だったのかあ、そしてカミヤマレコードさんのあった店舗は十字屋さんの支店でしたね。駅前ロータリーには学生時代にロッテリア、サーティーワンアイス、モスバーガー、魚民の所はマクドナルドと目まぐるしく店が現れ、消えてゆきましたね。いまは駐車場になってしまいましたね。駅前は閑静な住宅地にっ!
このシリーズはまだ続きます。





駅前回顧録3

CIMG1584北条海岸に酒は飲ませません、
麻雀もってのほかという時流に逆らった
民宿「みどり荘」のご主人、
吉田さんこと森正夫さん。
大正5年生まれ。

いまのブックス松田屋の所に
「大珍宝」という名前の食堂があった。
その大珍宝が吉田さんの家である。
これは吉田さんの父親の話。




CIMG1580 - コピー (2)白浜の岩目館の先々代に森田新太郎って言う人がいた。いま生きていれば<昭和40年代>、120歳くらいになるかなあ。博打を打たない大親分だった。駅前の店によく来たけど、白髪頭の身丈6尺もある大きな人だった。千倉に一力っていう博打うちの親分がいる。その人に縄張りゆずって堅気になった。大正3年の5月に、3日3晩寝ずにお祭りやって、親分譲りの式をやったそうです。
その親分を清水次郎長に例えると、うちのおとっつぁんは、一の子分だったから大政みたいなもんだ。縄張り譲っちゃって家にも帰れない。どこにも行けない子分が50~60人残った。うちのおとっつあん勝次郎って言うんだかんね。親分に「おい、勝っつあん、おめえがこの子分たち引きとって面倒みてやれ」って頼まれた。それじゃあ駅ができるから、人力車でもやれば、って人力車始めて、みんな車夫になった。うちのおとっつあんは人力車の組合長になった。
けど、自分は駅前で飯屋、一膳飯屋を始めた。日東バスの宮城行の乗り場がある所に人力車の駐車場があった。その頃はうちは土間だったからね。人力車の車夫が来て、炭くべて、うちで時間待ちしてた。

駅が開業したとき、水田三喜男さんは安房中<現 安房高校>の2年生で寄宿舎にいた。先輩がみんなを並べて何を教えるかと思ったら、これから切符の買い方を教えるって言うんですよ。「どこそこから、どこそこまで行く者ですが、切符を一枚売ってもらいたい」と言って買えと教えられた。次の日、一駅乗るんで、せいれつして並んで切符売りにおじぎして買った。

大珍宝の裏には馬小屋と蹄鉄屋と牛舎が並んでた。あんたら、へえ~って思うだろうけど、駅から降りてきて今の丸通ね、あのへんは全部馬小屋だったんだから。馬糞が積んであって、駅から丸見えだったんだよ。ついこの間まで。ーーートラック輸送が始まるまでは、すべて荷馬車が主力だった。駅前には一時期、4軒の運送屋があって、すべて馬力に頼っていた。



ビリー工作キット昭和シリーズ
ぼくらの夏は終わらない 1997年夏の月9ドラマ「ビーチボーイズ」に酔いしれる。館山市布良でロケ。
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