竹下さんのいる施設を後にした凪とミユキは、祖父の道場に立ち寄った。
道場に入ると、どこかで祖父が見ているような気がした。手紙を手渡す約束を果たせたことを、道場の神棚に報告した。凪は祖父の人生にに触れて、もう少し話をしたかったと思っていた。弓をひいているとき、祖父と対話をしている感覚になったことがあり、無性に弓がひきたくなった。
凪は無言のまま、弓に弦を張り、右手に弓かけをして的前に立った。ミユキも持参した弓を持って凪の後ろで的前に立った。ふたりは祖父と竹下氏のように、並んで的を射抜いていた。凪は弓をひき絞り、祖父の声を聞いていたにちがいない。
この小さな旅は、祖父の青春に触れる旅となったが、孫の凪を可愛がっていた祖父にとって、孫の成長をこれ以上見守ることができないと悟り、大事な手紙を託した思いもあるのだろう。何気なく引き受けた凪も、祖父からの言葉のない会話を正面から受けとめていた。祖父は凪に弓道を続けるようにと話していた。この旅で祖父が何を伝えたかったのかが理解できたような気がしていた。それは祖父と凪にしか分からない絆のようなものなのだろう。
弓道は28m先の直径36㎝の動かぬ的に向かい、鍛えられた体、磨かれた技術、コントロールされた心で立ち向かう。すべてが自分の内部にある武道だと言える。日本の弓は、的中率よりも弓をひく姿勢、的に向かって乱れない心を練ることに主眼があるようだ。これは道具を改良するのではなく、人間力を向上させるという文化の型と言える。現代の先行き不安な社会生活において、ストレスを抱えての激しい運動はかえって良くない。自分の中の自分と対話ができる時間が弓道にはあるような気がする。静かな時間の中で、弓の弦音を聞いていると、それだけでも心がやすらいでいくのを感じる。現実とは一歩離れた環境がこれからの社会人の健康に帰すると考えられている。
凪は祖父の影響で小学生の頃から弓道を習い、ミユキも支部道場を紹介されて弓道を習っている。すでに、弓道の絆で結ばれている不思議な縁だ。年齢を重ねても、年齢が高い人でも続けることができる武道である。よき指導者、良きライバル、良き親友の存在が、その人の射を形作っていく。人生には良いことと悪いことが半分ずつあると言われるが、悪いことの方が多いのかもしれない。ただ、悪い時をどう捉えるかで、ピンチをチャンスに出来るのだろうし、悪いと捉えること自体がなくなるのかもしれない。
楽しいことよりも辛いことの方がきっと多いのだろう。そんな時の「平常心」、これが道であると祖父は言っていた。凪とミユキはこれからの長い人生の中で、人間力を磨く武道でどんな成長を見せるのだろうか、祖父はそれを見守っていたかったに違いない。竹下氏への手紙を凪に託したことも、伝えたかったことがあったからだ。竹下氏を訪ねるこの小さな旅で、祖父からの思いは、確かに次の世代へつながれた。
矢取りに向かおうとした凪は、ミユキの美しい射形に目を奪われた。流れる水のように無理のない所作、静かな横顔の中で鋭く的を射す眼光。かすかな風に揺れる髪の毛。美しい光景だ。この世のものとは思えない美しさだと感じて。声を失っていた。きっとふたりとも弓の良きライバルになるだろう。祖父たちに輝く瞬間があったように、凪とミユキにもそんな季節がやってきていた。
〈完〉
道場に入ると、どこかで祖父が見ているような気がした。手紙を手渡す約束を果たせたことを、道場の神棚に報告した。凪は祖父の人生にに触れて、もう少し話をしたかったと思っていた。弓をひいているとき、祖父と対話をしている感覚になったことがあり、無性に弓がひきたくなった。
凪は無言のまま、弓に弦を張り、右手に弓かけをして的前に立った。ミユキも持参した弓を持って凪の後ろで的前に立った。ふたりは祖父と竹下氏のように、並んで的を射抜いていた。凪は弓をひき絞り、祖父の声を聞いていたにちがいない。
この小さな旅は、祖父の青春に触れる旅となったが、孫の凪を可愛がっていた祖父にとって、孫の成長をこれ以上見守ることができないと悟り、大事な手紙を託した思いもあるのだろう。何気なく引き受けた凪も、祖父からの言葉のない会話を正面から受けとめていた。祖父は凪に弓道を続けるようにと話していた。この旅で祖父が何を伝えたかったのかが理解できたような気がしていた。それは祖父と凪にしか分からない絆のようなものなのだろう。
弓道は28m先の直径36㎝の動かぬ的に向かい、鍛えられた体、磨かれた技術、コントロールされた心で立ち向かう。すべてが自分の内部にある武道だと言える。日本の弓は、的中率よりも弓をひく姿勢、的に向かって乱れない心を練ることに主眼があるようだ。これは道具を改良するのではなく、人間力を向上させるという文化の型と言える。現代の先行き不安な社会生活において、ストレスを抱えての激しい運動はかえって良くない。自分の中の自分と対話ができる時間が弓道にはあるような気がする。静かな時間の中で、弓の弦音を聞いていると、それだけでも心がやすらいでいくのを感じる。現実とは一歩離れた環境がこれからの社会人の健康に帰すると考えられている。
凪は祖父の影響で小学生の頃から弓道を習い、ミユキも支部道場を紹介されて弓道を習っている。すでに、弓道の絆で結ばれている不思議な縁だ。年齢を重ねても、年齢が高い人でも続けることができる武道である。よき指導者、良きライバル、良き親友の存在が、その人の射を形作っていく。人生には良いことと悪いことが半分ずつあると言われるが、悪いことの方が多いのかもしれない。ただ、悪い時をどう捉えるかで、ピンチをチャンスに出来るのだろうし、悪いと捉えること自体がなくなるのかもしれない。
楽しいことよりも辛いことの方がきっと多いのだろう。そんな時の「平常心」、これが道であると祖父は言っていた。凪とミユキはこれからの長い人生の中で、人間力を磨く武道でどんな成長を見せるのだろうか、祖父はそれを見守っていたかったに違いない。竹下氏への手紙を凪に託したことも、伝えたかったことがあったからだ。竹下氏を訪ねるこの小さな旅で、祖父からの思いは、確かに次の世代へつながれた。
矢取りに向かおうとした凪は、ミユキの美しい射形に目を奪われた。流れる水のように無理のない所作、静かな横顔の中で鋭く的を射す眼光。かすかな風に揺れる髪の毛。美しい光景だ。この世のものとは思えない美しさだと感じて。声を失っていた。きっとふたりとも弓の良きライバルになるだろう。祖父たちに輝く瞬間があったように、凪とミユキにもそんな季節がやってきていた。
〈完〉