潮騒が聞こえる〈BEACHBOYS1997〉

たそがれ時を過ごす場所。Costa del Biento / Sionecafe    2022年、館山の夕日劇場を見においで

極真空手発祥の地

極真空手発祥の地

南房総天津の清澄寺の植物園の中に碑が建っている。
いまは改修されて、もっとりっぱなものになっているかもしれません。
これは孤高の空手家、大山倍達氏が2年半にわたって、
山ごもりで空手の修行に励んだ場所だ。

ここを下りた大山氏は館山に居をかまえた。
ここで館山出身の映画俳優、待田京介氏が一番弟子となったが、
漫画「空手バカ一代」のモデルとなっているとも聞く。
やがて、館山の八幡海岸で、ドキュメント映画の撮影で、
牛と闘ったのは伝説となっている。

大山氏生前は、安房自然村での合宿も恒例だった。
極真空手発祥の地が館山だと、大山氏は公言していた。
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押忍! その1

南房総には、マニアックな名所が存在します。
その部分を掘り起こします。
 
「空手バカ一代」という漫画をご存知でしょうか?
戦争から帰国してみると、日本は荒れ果てていて、
子供たちは米国軍人の投げるチョコレートを無心に拾っている。
ある日、若い女性が外人兵士に暴行を受けているのを見て、
誰も逆らえなかった外人兵士に立ち向かった空手家、
それが、のちに極真空手を世界的組織として立ち上げた孤高の空手家
大山倍達(おおやま ますたつ)その人だ。
 
大山氏の半生を梶原一機、影山譲二、つのだじろうで、長編連載された
漫画が「空手バカ一代」でした。ある程度の大げさな脚色はあるにしても
この漫画を読んで、日本の空手人口が急増したのは間違いありません。
漫画にも出てくる、大山氏の山ごもりによる空手修行ですが、2年半にわたり、
南房総の外房、天津の清澄山の清澄寺近くの山中で行われたようです。
写真は、清澄寺門前の植物園にある記念碑です。
2年前に立派なものに建て替えられたらしいですが写真は旧のものです。
 
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そして、極真空手の世界大会の時は、代表選手がここを訪れて、
 
日本の優勝を祈念します。
 
フランシスコ・フィリョ(ブラジル)も日本の心を持つ空手家で、
 
ここを訪れて花束をささげ、世界大会を制しています。
 
この入口にあるドライブインでは、かれら極真の猛者たちの
 
サイン帳がおかれているそうです。
 
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その2につづく

押忍! その2

若き孤高の空手家、大山倍達氏は南房総の清澄山に2年半のあいだ、
山ごもりをして空手の修行に励みました。
自分の心がへこたれないように眉毛を片方そり落としてしまったそうだ。
こうすれば、恥ずかしくて人里へは近づかない。
 
孤高の空手家、大山倍達氏は
南房総天津の清澄山での山ごもり修行を終えて、館山に居を構える。
館山市の八幡海岸での映画撮影で牛との戦いをむかえた。
ぼくの父はこのドキュメント映画に見物人として
学校単位でかり出され、目の前で見ていたそうだ。
この写真の後ろに見える学生服の団体の中にいたのだろう。

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(写真もと不明。同写真は大山氏の特集誌にもある)
 
大山総裁が生きていた頃は、
毎年本部の夏合宿は館山の安房自然村と決まっていました。
布良のビーチボーイズで有名になった海岸には
かつて、極真空手の猛者たちが瞑想する姿が見られました。
 
大山総裁は何度も言っていました。
「ここ館山が極真空手の発祥の地だ」と。
ビデオ「牛殺し」でも、館山と極真空手のつながりを語っています。
 
 
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本部夏合宿が行われていた安房自然村の名主の館。
1997年には、ドラマ「ビーチボーイズ」のロケ隊のひと夏の合宿所として
使われていました。
 
 
大山氏が、館山に住んでいるときに、
待田京介という館山の青年が一番弟子になっています。
青年は後に日活の映画俳優になっています。
孤高の空手家は東京池袋に世界に名だたる極真会館を創設します。
東京での波乱万丈な人生は「空手バカ一代」で是非読んでみてください。
人生のヒントがかくされていますよ。
 
大山氏の一番弟子となった待田氏は「空手バカ一代」でも、
玄関の土間で土下座して弟子になる青年として描かれています。
 
待田京介(まちだきょうすけ)、本名 薦岡康彦
1936年6月22日生まれ
千葉県館山市出身の俳優、空手家、都立大泉高校
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新人俳優の頃の待田氏
 
終戦直後の館山に住んでいた大山倍達に親が頼み込んで弟子入りした。
それまで弟子を取らなかった大山倍達にとって一番弟子でした。
館山で大山倍達に稽古をつけられる。
 
大山が東京に移るのを追いかけるようにして東京へ行き、
池袋の大山道場で空手の稽古に励む。
大山道場は極真会館と名前を変え、後に世界一有名な空手道場となっていく。
待田氏は高校卒業後、さまざまな職業に就くが俳優を目指し、
「俳優座養成所」「東京芸能」を経て、1958年日活入社。
 
同年井上梅次監督の『素晴らしき男性』で、石原裕次郎の弟役でデビュー。
小杉監督の『船形さんよ』の主役に抜擢される。
小林旭、川地民夫らにつづく新人として売り出し、
1959年の「らぶれたあ」は、1995年に
中山美穂、豊川悦司でリメイクされています。
現在も、極真の大きな大会には、来賓として招かれています。
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現在の待田氏
 
館山で空手の修行に励んでいた大山氏は
館山八幡海岸での牛との戦いのあと東京田園コロシアムで、
スペインの闘牛用の牛と闘うというドキュメント映画の撮影に臨んだ。
 
この牛はかなり凶暴で、戦いを見守っていた専門家によって、
大山氏が危険と判断されて試合途中で銃殺されていると聞く。
しかし、アラブでゴリラとの戦いを強要されたり、
アメリカではアンダーグラウンドの組織の賭けプロレスに出されたりと
大山氏の半生は波乱万丈です。
 
晩年の大山氏とプロレスの前田日明との対談では、
「前田くん、きみ!虎と闘いなさい!」とものすごいアドバイスをおくっていた。
 
(その3につづく)

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押忍! その3

1954年、昭和の巌流島といわれた他流試合がありました。
力道山(プロレス)vs木村(柔道7段)の試合です。
木村の妻が重い病気に罹っていて、木村は妻のために
アメリカの高価な薬を得るための挑戦だったと言われています。
 
試合の前日、力道山からの電話で、お互いに背負うものが大きいので、
お互い引き分けにしようと持ちかけられて合意していたらしい。
安心して、前日酒を飲んでいた木村を叱ったのは友人の大山でした。
 
大山が安じていたように試合が始まると本気で顔を叩いてくる力道山に、
話が違うじゃないかと、木村は反則の蹴りを一発。
これにキレた力道山が木村の顔面、頭部に執拗なまでの殴打を繰り返す。
ふいをつかれた木村は、失神してしまう。
この結果、力道山が柔道王を制したことになった。
 
前日からのいきさつを知っている大山は、木村のセコンドにいた。
そして、曲がったことが嫌いな大山は、
勝ち名乗りを受ける力道山を睨みつけてリングに上がろうとしていた。
それを抑えられる映像を、テレビカメラは映していた。
実は、力道山の「カラテチョップ」は、大山が指導したものだったのだ。
 
さて、この大山氏の弟子には多くの逸材が育っていた。
その中にケンカ十段といわれた芦原英幸氏がいた。
かれはケンカが強いだけではなく、人間的にみんなに好かれていた。
城西の添野氏も日大の山崎氏も道場のある四国愛媛まで
芦原氏を頼って修行にでている。芦原氏は四国の地で自分で開いた道場をここまで大きくするまでに努力していった。その芦原氏が極めたのが「サバキ」でした。どんな攻撃にも対処してさばくことができれば、それは攻撃ともいえる。芦原氏は平成4年にALSという難病で亡くなっている。
 
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芦原氏は心優しき空手家です。困った知り合いを助けるために、
池袋の路上でやくざさんを数人相手になぎ飛ばしていた。
芦原英幸氏は破門されていたが、大山氏の命を受けて四国に行き、
芦原カラテを広めていった。それが四国愛媛の芦原会館だ。
大山氏の愛弟子、芦原のところでは、正道館の石井和義元館長や
円心空手の二宮城光らが弟子として頭角を現す。
 
極真アメリカには、ウィリーウィリアムスという熊と闘った男が現れた。
あまりにも強すぎたウィリーは、蔵前国技館でのアントニオ猪木戦を迎える。
極真空手と新日本プロレスという看板の戦いとなった。
猪木はウィリーの腕を折り、ウィリーは猪木のあばらを折った。
異種格闘技の最後はこういう結末しかないのかもしれません。
もし、木村に油断がなかったら、こういう結末が
待っていたのかもしれない。
ウィリーは、正道の石井館長の愛弟子「佐竹雅昭」と闘っている。
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佐竹は猪木戦をテレビ観戦していたので、 
ウィーリーとの試合は感激だったに違いない。

ぼくもこの試合は最前列で観戦した。
 


空手バカ一代の伝説

極真空手の創始者である大山倍達氏は、
清澄山の山ごもり修業から降りて来て、
館山に居を構えて修行して、のちに海岸で牛と闘うことになるのですが、
 
 
大山氏が山ごもりの清澄山から下りて来て街中に出た時、
天津のまちの電線にすずめが数羽止まっていたのを見つけ、
 
大山氏が電信柱に正拳を叩きこむと、
電線に居たすずめが地面に落ちて来て
しばらく気を失っていたと言う話が
大山氏の伝記漫画「空手バカ一代」にありました。
 
先日、大山氏のフィギュアを手に入れましたので、
再現してみました。
 
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うりゃ~! ドン!!
 
 
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落ちてきた鳥は、
 
しばらくのあいだ、気を失っていたが、
 
気が付くと、何もなかったかのように
 
飛んで行きました。。。押忍!
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大山伝説

館山を愛した極真空手の創始者、大山倍達先生の伝説はたくさんあります。
 
ぼくは、UWFというプロレス団体のファンで、
日本各地で開催された興業に出かけました。
こういうライブ感覚でUWFを見に行くファンを、
当時は「漂流者」と呼んでいました。

このUWFの中心にいたのが、
プロレスラーの前田日明(まえだ あきら)でした。
当時は無敵と言われていたデンジャラスヒーローでしたが、
雑誌で大山氏との対談がありました。
 
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漫画「空手バカ一代」を読んで育った前田さんは、漫画に描かれていた話に及んだ。
漫画の中では、猛牛と闘ったり、
中東に行った時に国王からゴリラと闘わされた話があり、
前田さんの興味津津な質問はつづいた。前田さんも空手少年だったんですね。
この対談のしめで、大山氏は前田さんにこう助言したのでした。
 
「前田くん、きみ、虎と闘いなさい!きみならできるよ」
そう言われて、苦笑いを浮かべた前田さん。
「虎。。。ですか。。。(笑)」
 
達人の言うことは、冗談ではなかったようだ。
闘えるような気がしてくるから不思議だ。
当時、USA大山空手のウィリー・ウィリアムスは
熊と闘って最強を示していました。
 


武人語録

極真空手の創始者、大山倍達氏は寸止め空手を見て
ダンスのようだと言い放ち、実際に拳を当てる
フルコンタクト空手を世界各国に広めた偉人となった。

学生時代から極真を見てきて、尊敬する武人が
たくさんおられる。そのひとりが黒澤浩樹さんだ。
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(画像は格闘技通信より)

極真空手は拳をかためての、ど突き合いだ。
我慢大会に近いものもある。

からだと心が折れた方が負けだと思う。
そんな中で修業する黒澤さんの声に耳を傾けたい。

「ハイポジティブ」
仕事に夢中になって気がついたら3時間も経っていたという経験が
あるじゃないですか。これがハイポジティブの状態なんです。

ところがこの仕事を3時間でやるんだ、ほんとは嫌だと思って
いるけど、気合いだ!根性だ!で頑張ろうとしている。時間が
経つのも遅いし早く終わらないかとも思う。これがハイネガティブ。

試合ではハイネガティブでも勝つことが出来る。でも楽しくない。
ハイポジティブだと延長なんか何度でも来いよ。楽しくて仕方ない。
相手に対しているとき、関係者から解放されて、本当の「無の境地」
になっているんだろうと思う。それが本当の意味でのハイポジティブ
なんです。闘うものにとっては一番幸せな瞬間なんですね。
(格闘技通信より)

武人語録 2

大山道場の門下生には、天才と呼ばれた人情深い暴れん坊
ケンカ十段と言われた芦原英幸氏がいた。
詳しくは、漫画「空手バカ一代」をぜひお読みいただきたい。

芦原氏は極真空手を広めるため、単身四国に渡ることになった。
そして愛媛県八幡浜に道場を構える。
そこで入門してきたのが後に円心空手の創始者となる
二宮城光氏だ。きょうは、二宮氏の言葉を紹介したい。
二宮氏は米国コロラドに渡った武人でした。

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福昌堂「静かなる闘志」より


「吾以外皆師也」
生きていることは試されることの連続だ。
顔をそむけず、挫けず、何とか這い上がって
いかなければならないのでしょう。

コロラドの草原が、冬に草が枯れて土に戻り、
枯れた草を栄養として、土が花を咲かせるように
心を豊かにしてくれる。

武道をやる者は、周囲から存在を喜ばれる人間でいて欲しい。
もともと武人とは、自分の努力を他人への愛情に
変えられる人間のことを言う。

そして道場とは、
人間を育てる所であったはずです。

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