大正初期六軒町通り0大正期に館山に鉄道がやってきました。
田園地帯に線路が敷かれて駅が出来ました。
駅前の大珍宝のご主人を頼った白浜の
堅気になった50~60人の子分さんたち。
人力車の車夫として働くことになりました。
親分さんが博打をやらない親分さんだっただけに
雲助のような人はいなかったと言います。


さて当時の人力車の賃金は一里15銭以内、その往復で24銭以内と決まっていた。
決して朦朧車夫と言われた横暴な雲助はいなかった。
ただし、難路や風雨、夜間には割増があった。
北条を起点として、名所までの賃金ですが、(「安房の傳説」による)
館山地区まで12銭、那古へ20銭、塩見へ30銭、千倉へ55銭、
白浜へ70銭、布良へ50銭、和田へ70銭、保田へ1圓、
鴨川へ1圓半、小湊(当時は小港)へ1圓半、賃金はその里数に比例していた。