1127651678_51148ここに一枚の切符がある。中学の教科書に出ていた「おもちゃのまち」駅に興味があった。
日曜日にひとりで訪ねた。その時の帰りの切符です。
夕方駅を降りると、ウルトラマンの像に迎えられた。遠くに自治医科大学という大学のビルが見える。宇都宮が近いのだろう。
当時はミュージアムも何もなかったけど、中学生のひとりの冒険だった。



おもちゃのまちサイト (omochadanchi.or.jp)

<以下は壬生町のおもちゃのまち博物館サイトより、説明>
 1955(昭和30)年頃、東京の下町といわれる葛飾区や墨田区には、たくさんのおもちゃ工場がありました。この頃、日本のおもちゃ産業はうなぎのぼりで、ブリキのおもちゃなどが国内販売はもとより欧米などにどんどん輸出されていて、どこも生産が間に合わないような状況でした。生産が盛んになってきたので、生産設備や工場を大きくしようとしました。しかし、都内の土地の値段は高く、なかなか買うことができませんでした。また、工場のあった所は、海抜0メートル地帯といわれる低い土地のため、台風などによる高波で大きな被害が予想される地域でした。
こちらの対策に悩んでいた当時の玩具組合長の富山栄市郎さんは、設備や工場をすべてほかの地域へ移転しようという組合の人々と相談しました。
はじめは、千葉県流山市に集団で移転しようという計画でした。計画の途中で壬生町にという話もありましたが、東京から遠いということで見送られてしまいました。ところが、流山市では地主さんの反対や土地の値段が急に上がってしまったことから工場用地を手に入れられませんでした。
そこで、玩具組合では流山市への移転をあきらめ、壬生町に工場を建設することに決めたのでした。

壬生町では、1962(昭和37)年2月に輸出玩具工場団地を誘致することに決定し、工事建設を積極的に応援することになりました。
そして、1964(昭和39)年に工場団地建設工事がはじまり、1965(昭和40)年におもちゃの工場団地ができました。東京から移り住んだ人もたくさんいました。その後、おもちゃの工場団地のまわりでは、住宅団地の建設や道路の整備などが行われました。

 おもちゃの工場団地で働く人や地元の人たちが、この辺りを“おもちゃのまち”と呼ぶようになり、1964(昭和39)年には、東武鉄道株式会社が東武宇都宮線の安塚駅から国谷駅の間に「おもちゃのまち駅」を新しくつくりました。1966(昭和41)年には、住宅地が売り出され、新しい家がたくさん建てられ、住民も増えていきました。

このようにして、通称“おもちゃのまち”は、1977(昭和52)年に正式な町名「おもちゃのまち」になりました。まさにここは、日本のおもちゃの発信基地だったのです。