CIMG1584北条海岸に酒は飲ませません、
麻雀もってのほかという時流に逆らった
民宿「みどり荘」のご主人、
吉田さんこと森正夫さん。
大正5年生まれ。

いまのブックス松田屋の所に
「大珍宝」という名前の食堂があった。
その大珍宝が吉田さんの家である。
これは吉田さんの父親の話。




CIMG1580 - コピー (2)白浜の岩目館の先々代に森田新太郎って言う人がいた。いま生きていれば<昭和40年代>、120歳くらいになるかなあ。博打を打たない大親分だった。駅前の店によく来たけど、白髪頭の身丈6尺もある大きな人だった。千倉に一力っていう博打うちの親分がいる。その人に縄張りゆずって堅気になった。大正3年の5月に、3日3晩寝ずにお祭りやって、親分譲りの式をやったそうです。
その親分を清水次郎長に例えると、うちのおとっつぁんは、一の子分だったから大政みたいなもんだ。縄張り譲っちゃって家にも帰れない。どこにも行けない子分が50~60人残った。うちのおとっつあん勝次郎って言うんだかんね。親分に「おい、勝っつあん、おめえがこの子分たち引きとって面倒みてやれ」って頼まれた。それじゃあ駅ができるから、人力車でもやれば、って人力車始めて、みんな車夫になった。うちのおとっつあんは人力車の組合長になった。
けど、自分は駅前で飯屋、一膳飯屋を始めた。日東バスの宮城行の乗り場がある所に人力車の駐車場があった。その頃はうちは土間だったからね。人力車の車夫が来て、炭くべて、うちで時間待ちしてた。

駅が開業したとき、水田三喜男さんは安房中<現 安房高校>の2年生で寄宿舎にいた。先輩がみんなを並べて何を教えるかと思ったら、これから切符の買い方を教えるって言うんですよ。「どこそこから、どこそこまで行く者ですが、切符を一枚売ってもらいたい」と言って買えと教えられた。次の日、一駅乗るんで、せいれつして並んで切符売りにおじぎして買った。

大珍宝の裏には馬小屋と蹄鉄屋と牛舎が並んでた。あんたら、へえ~って思うだろうけど、駅から降りてきて今の丸通ね、あのへんは全部馬小屋だったんだから。馬糞が積んであって、駅から丸見えだったんだよ。ついこの間まで。ーーートラック輸送が始まるまでは、すべて荷馬車が主力だった。駅前には一時期、4軒の運送屋があって、すべて馬力に頼っていた。