5番 2













実家の旅館があった頃には言えない事情はたくさんあります。
館山で宿泊施設をしていて、「我慢の毎日」は本にするほどありました。
いまだから言えるいくつかだけ。。。

館山が海水浴の海だった昭和の頃、海まで歩ける旅館民宿は混みあいました。
戦時中は、基地や砲術学校や洲崎航空隊関係の宿泊が多かったのでしょう。
昭和30年代には、臨海学校の学生さん、40年以降はヨット部や弓道部の学生さんの合宿でした。
5月の連休、夏の間は一般客が増えました。昭和の頃は古い木造を楽しむ客や、
客同士の会話もはずみ、仲良くなって帰る家族も多かった。
平成に入ると、客層は一変しました。客同士が仲良くなることは少なくなりました。
民宿のシステムは崩壊しました。風呂も部屋も改造を必要とされました。
「個」の主張と自分を守るために相手の立場を考えずに行動する人たちが増えたのです。

平成〇年5月の大型連休、部屋は埋まっていましたが、一部屋キャンセルがありました。
電話が入り、「女性二人だけど今日泊まれますか?」ちょうど8畳の部屋が空いたので、
お取りしました。すぐにその客はやってきました。見ると女性二人と、小学生が5人。
「先ほど電話で女性二人で予約した〇〇です」小学生はみんな3年生以上に見える。
「はい、こちらの小学生の方たちは?」
「ああ、この子たちは布団はいらないし、食事もしないので大人二人でお願いします」
「規則上、子供料金をいただきたいのですが。。。」
「なに?そんなにもうけたいの?」と息も切らさずがなり立ててきた。
部屋も開いてるし、いいか、との判断で泊めてしまった。

大きな風呂場は二人と5人でかなり汚されてしまったので、お湯の入れ替えとなった。
他の宿泊客にはその間、家族風呂を利用してもらった。
食堂にやって来た女性二人、皿の上にジャーのなかの米を塩むすび10個ほどにして
部屋へ持ち帰っていった。大きなジャーのなかのコメはほとんどなくなっていました。
この8畳の部屋では大声の運動会が始まったようで、旅館中に声が響いていました。
さて夜ですが、廊下の布団倉庫から勝手に布団を部屋に運び込み、8畳いっぱいに
布団をひき、7人で就寝。朝、4つの布団は子供たちのおねしょで使えず。。。
会計時には大人二人分だけしっかり払って行かれました。
                ・・・・我慢、我慢!