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    St.James'Park

凪がハムステッドを留学先に選んだのは、ハムステッドの街がロンドンの中でも最も綺麗で落ち着いた街だったということと、英語研修のできる語学学校があったからだ。この学校で紹介されたホームステイ先がムーア家だったことも、凪には恵まれた環境だった。ある日、ボビーが凪を連れていきたいところがあると誘ってくれた。そこは、ムーア家から車で20分ほどの距離にあるハイゲート墓地だった。日本でも偉人の墓を訪ねるのは観光資源となっているが、英国ではここをアトラクションと捉えているところが面白い。ボビーは大きなモニュメントの前でこう説明してくれた。

「この墓はカール・マルクスの墓だよ。資本論を書いているので、凪も知っているだろう?」

「ぼくはあまり詳しくはないけど、マルクスの名前だけは知っているよ」

「では、ここはどうだい?」

ボビーは古い石造りの建物を指さしていた。建物の中は薄暗く、入場料の必要な建物だった。見るからに不気味である。ボビーに背中を押されて中へ進むと、洞窟のような小部屋が並んでいて、蓋の空いた棺のようなものが見えた。

「昔、この墓地で吸血鬼狩りが行われたんだ。ひとつずつ棺を壊して、棺の中に吸血鬼が隠れていないかと調べたので、棺が壊れているんだよ」

凪は不気味な空気を感じて身震いをした。ボビーはさらに続ける。

「その時は吸血鬼は見つからなかったらしいけど、ほら、そこの棺の中に、吸血鬼がいまも隠れているかもしれんよ」

凪はボビーの指さす暗い部屋の奥の棺を振り返ると、足早にその場を離れた。ボビーは凪の後ろから吸血鬼を真似てか「オー、オー!」という声をあげながら、凪を怖がらせていた。凪は一気に建物の外まで走り出てきた。外の空気は建物の中の澱んだ空気と違って澄んでいて、安心できて気持ちがいいと感じていた。

ボビーは脅かせたことを謝り、帰りに近くのパブでボリュームたっぷりのローストビーフをご馳走してくれた。その時ボビーは英国を代表するロマン派の詩人、ジョン・キーツのことを話してくれたが、凪は全く知らない話だった。でももうひとつ、有名な行進曲「威風堂々」の作曲で知られるエドワード・エルガー卿の話を聞いたときは、この曲が好きだった凪には、エルガーが暮らしてきた同じ街に自分が居ることが誇らしかった。ボビーもこのハムステッドの街が自慢だったのだろう。凪にはそんな街のことを知って欲しいと誘ってくれたんだと理解した凪は、ボビーに感謝の気持ちを伝えた。この時からボビーと凪は親子のような関係を築けたのかもしれない。週末の陶芸教室の日には、ボビーの助手として、通ってくる子供たちのお世話をするようになった。部屋の中に簡易的な陶芸の窯が用意されていて、子供たちが皿やカップの形を作ると、この円形の金属の窯のふたを開けて中に並べて入れる。数日して子供たちは陶器の出来上がりを楽しみにやってくる。ボビーは出来上がった子供たちの作品を、ひとつずつ良いところと、こうしたほうがいいよという助言を与えながら、ひとりずつ子供たちの努力と作品を誉める。凪はこのときのボビーの姿が好きで、日本にいる父親の姿と重ねてみる思いがした。

一方、スーザンは雑貨店のお客の対応に忙しい毎日を送っている。自分の好みで仕入れた雑貨を愛し、やってくるお客にその良さを伝えることに喜びを感じている。スーザンは夕食のときに、日本のお店について凪に話を求めてきた。凪は日本の100円ショップの話を持ち出して、スーザンの店には似合わないかもしれないが、とても便利なアイデア商品がたくさんあって、100円という安価で売られている話をした。スーザンはとても興味を持ったようで、日本に行って自分の目で確かめたいと言っていた。凪は少しでもスーザンのためになりたかったので、この日は熱く100円ショップを語る夜となった。凪はムーア家のボビーとスーザンの生活を自分の環境に取り入れて、ハムステッドの生活を楽しむことを覚えていった。

 

112この街の生活にも慣れてきたころ、凪はホームシックになっていた。

人間はどんな環境にも慣れることで対応して生きていけるものなのだが、朝起きたときにいつもの家族がいなかったり、いつもの友人たちがいなかったりすると、ふと環境の違いを感じてしまうようだ。ましてや日本の食事は世界で有数の美味さを誇るので、凪が好きだった焼きそばやたこ焼きが食べられないということが、寂しさを呼び起こしてしまう。家族に会いたいと妙に、その日は思っていた。

凪はスクールの友人、水野涼に誘われてロンドンの街中にいた。水野も凪と同じく日本から語学留学に来ていた大学生だ。水野は横浜出身で東京の中高を出た大学生で都会育ちの明るい男だ。水野は都会の風に吹かれたくなったのか、セントジェームスパークの近くにある涼の伯父の勤めるオフィースに届け物を頼まれ、凪を誘ったのだ。ハムステッドに慣れ親しんでいた凪にとっても良い刺激となる一日となった。

ロンドンの街中は霧に包まれていた。水野がささやいた。

「霧のロンドンかあ、俺たちはいまロンドンにいるんだなあ」

「そうだな」

凪は水野の言葉に少し照れながら答えていた。ロンドンに霧が多いのは、ふたつの海流が、ドーバー海峡でぶつかっているからだ。暖流のメキシコ湾流が北上しているが、北東からも北極海流が流れ込んでいる。メキシコ湾流が運んできた暖かく湿った空気が、冷たい北極海流に冷やされて霧となったものが、東からロンドンに流れ込んで上空を漂っていることによる。凪はロンドンに来てこの話を聞いて初めて、ロンドンが港町だということを知った。テムズ川の見えるティーハウスで水野はこんな話をしてくれた。

「『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国』っていうのがイギリスの正式な名前だってスクールで習ったじゃん」

「ああ、先週のイギリスの歴史の話だったね」

「うん、このグレートって何だか知ってる?」

「大きいとか、偉大なとかいう意味かなあ?」

「俺さあ、調べたんだけど、このグレートは『遠くの』っていう意味があるらしいよ」

「遠く・・・?どこから見て遠いんだろう?」

「知識を自慢していいかい?」

「ああ、勉強になるし教えてくれよ」

「うん。アングロサクソン人によって追い出されたケルト系ブリトン人が移住したのが、フランスのブルターニュなんだ。彼らが海を挟んだ遠方の島をグランドブルターニュと呼んでいたんだけど、これが英訳されたときにグレートブリテンとされて地名として定着したんだとさ」

「涼、すごいじゃんか。よく調べたね」

「ああ、自分がいま居る場所のことだからね」

「ぼくも調べたくなったよ」

二人のいる店のどこからともなく、曲が流れていた。

「凪は親に迷惑をかけたことはある?って言うか、親不孝なことをしたことある?」

「いまのところないと思うよ。涼はあるの?」

「うん、学校で悪い奴らと付き合ってて、部室でタバコを吸ってたところを担任に見つかって、停学になったんだ。そのとき、母親がすごく泣いてね。それ以来、母親とはうまくいってないんだ」

「いまもそうなの?」

「うん、ああいう経験は親にずっと不信感を抱かせる息子になっちゃうんだよね」

「お母さんは留学にはどうだったの?」

「賛成してくれたよ。でも母親にはいつまでたっても悲しい思いをさせたことを悔やんでるんだ」

「涼は留学して、将来はなにになりたいの?」

「うん、ほんとはシェフになりたいんだ」

「レストランの?」

「ふふ、秋山ちえ子っていう人の『大晦日のローストビーフ』っていう話を知ってる?」

「いや、どんな話なの?」

「息子さんが勉強できなくて高校を卒業してコックになったらしいんだ。母親はやる気を出している息子を見て少し安心するんだけど、職場でもいろいろあって欠勤したりして息子が悩むわけよ。でも、母親は長い人生はいいことばかりではない。いつまでも手を貸してあげられるものでもないと見守ることにするんだ。息子は精神的に疲れているのが分かるので母親は精神科の先生と相談して息子を入院させるんだよ。やがて退院した息子はマルクス、レーニンの革命に興味を持つ。そこでまた、母親を悩ませるんだよ」

1117「人間は公式には当てはまらないって考えた方がいいよね。でも、母親は心配だよね」

「うん、でもある日、『料理をすることにしたよ』って息子が言うんだよ。職場に復帰した彼は、望んで人の嫌がる仕事をしたんだ」

「それで?それでどうなったの?」


「毎年、大晦日になると、彼が母親のために最高のローストビーフを届けてくれるんだ」

「ええ、母親は喜んだろうね」

「おれもね、母親には迷惑をかけっぱなしだし、いつか一流シェフになって、毎年母親にはローストビーフを届けたいなって思ってるんだ」

「涼、すごいじゃないか。泣きそうだよ。ぜひ僕にもローストビーフを食べさせてくれよ」

「良いんだけど、お前に何か迷惑かけたっけ?」

「まあまあ、いいじゃんか。良い話を聞いたら、急におなかすいてきたよ」

「涼、早くシェフになってよ。メチャメチャ応援するからね」

「凪はどうなのよ」

「僕は英語を覚えて、空港で働きたいんだ。いろんな国の人と話したいし、日本という国の入り口で気持ちよくお迎えして、日本を楽しんでもらって、元気になって帰って行くのを見送りたいんだ。Simple is bestだろ?」

「まあね、凪らしくていいね」

ふたりは楽しい時を過ごしていた。

    〈 つづく 〉