深川の運河をいかだを引いた船がゆく。材木いかだの上で、木場の男が足を組んでいる。永代通りには路面電車が走っている。凪の母は、日本橋東急に買い物に出かけたが、一本前の都電に乗ったのだろう。もう道路中央の都電の駅にはもうその姿はなかった。間もなくして、東西線の門前仲町駅から階段を駆け上がってきたミユキが姿を現わした。
「おはよう、待った? おまたせ」
いつもと変わらず、朝から元気なミユキだった。駅の横に深川不動尊の赤い門があるが、その色に映える白いシャツが爽やかなイメージを与える。深川の道場は凪の住む門前仲町からほど近い場所にある。昨日、父から道場の宇野先生に連絡してもらい、きょうは話が聞けることになった。木場方面に歩き、洲崎の街に出た。東陽一丁目、むかしの深川洲崎弁天町という場所に、遊郭・赤線地帯が存在した。戦後、洲崎パラダイスとして復興して以後13年間遊郭が存在していた地域だ。深川道場はこの近くにあった。

ふたりは道場の宇野先生に挨拶をして、道場の中に案内された。宇野先生は頭髪はなく、一見強面だが、丸い眼鏡と鼻の下のちょび髭があり、人の良さそうな感じの男だった。
1365308351_2169721「宇野先生、祖父はここでどんな修行をしていたんですか」
「うん、私はまだ小学生だったが、君のおじいさんと竹下さんのことはよく覚えているよ。
君の祖父は、保っちゃんと呼ばれていて、ここの道場でも常に的を外さない自信を持った弓ひきだった。道場対抗の試合に出ても、常に優勝してきて商品のメダルを私にくれたよ。弓をひく姿も体幹のしっかりした美しい射形だった。

これからもずっと、保っちゃんの天下だとみんな思っていたんだ。ところがそこに竹下純子という、女性だが的を外さない弓ひきがこの道場にやってきたんだ」
「竹下さんはどこで弓を習っていたんですか?」
「どこだったかなあ、あの頃はあまり女性で弓をひく人は多くなかったから、どこでひいていたとしても、女性には居づらい環境だったと思うよ。竹下さんは弓が好きだったんだな、いろいろな妨害もあったと思うけど、的を外さない弓ひきにまでなっていたんだから。この道場にも的を外さない保っちゃんがいたからな、ふたりはものすごいライバル意識で火花を散らしていたよ。よその道場なら、うますぎる竹下さんは居場所がなくなるんだろうけど、保っちゃんは、男だろうが女だろうが関係ない。竹下さんの弓を認めていて尊敬していたよ。その上で勝負を挑んでいたんだな。大会に行っても二人とも的を外さなかったんだ。それで競射といって、的の中心に近い方を優勝と決めていたんだが、おたがい譲らず交互に優勝していたよ。大会はふたりに独占されていたんだな。まあ、ふたりは競って極限まで心も体も鍛えていたよ。弓としては譲るところはなかったな」

凪もミユキも言葉を失っていた。それほど、宇野先生の話はふたりにとっては刺激的だった。祖父と竹下氏の輝きだす瞬間を聞いている気がしていた。
「保っちゃんも竹下さんも、道場の中ではひとこともしゃべらずに弓をひいていた。それでもお互いを意識していたので、ちょっとした動きや所作を見逃さずに勉強して、お互いを手本に自分の射に吸収していたんだな。お互いがお互いに習っていたと言ってもいいんじゃないかな。だから、竹下さんが風邪をひいて体調が悪い時も、その射から理解して保っちゃんは帰りに風邪薬を渡していたよ。言葉なんて無くても、お互いがお互いを理解してしまっていたんだろうな。私たちには到底できない境地にいたと思うよ」
「祖父は竹下さんを、単なるライバルというよりも、むしろ尊敬していたんですね」
「きっとそうだな。それから、こんなこともあったよ。女性の竹下さんが大会で優勝しているのを妬む人たちもいた。それで、女性を大会から追い出そうとしていたのを聞き知った保っちゃんが、乗り込んで行って、その話を潰したんだ。それで、これからも二人で競い合って弓を極めて行けると修行に励んでいたんだが、竹下さんの父親がが急に亡くなってね。急遽、親同士が決めていた相手と結婚することになったんだ。保っちゃんは、竹下さんの父親が亡くなったことは知っていたけど結婚の話はそれ以降も知らなかったと思うよ」
「竹下さんには、親の決めたいいなづけがいたんですか」
1316314410_1541075「そうなんだよ。保っちゃんも竹下さんも、ふたりとも男だ女だは関係なく、弓道の真の探究者だったんだ。しかし、お互いに心内が読めるほどの大親友になっていたと言えるんだろうなあ。竹下さんは保っちゃんの気持ちを思って陰で泣いていたよ。女性である竹下さんの前に起こるいろいろな障害を取り除いてくれたのも保っちゃんだし、これからも保っちゃんと大好きな弓道を続けていけると思っていたと私は思うよ。
だけどね、母親から何を言われたかは私は知らないが、ある日竹下さんが突然道場から居なくなってしまったんだ。保っちゃんは竹下さんが何か悩んでいたのは知っていたから、いつか相談に乗ろうと考えていたらしい。でも、言えなかったんだなあ。保っちゃんはその後、ひとりになっちゃったんだな。気持ちの張りを失っているのが見ているだけでもよく分かったよ。しばらくして、弓道に対する意欲も薄れてきて、寂しく館山に帰って行ったよ」
「そうだったんですかあ、じいちゃん・・・」
凪の背中後方から、ミユキのすすり泣く声が聞こえてきた。

    〈続く〉